学校が終わり、いつものように家に帰ると、俺は使用人の一人に呼び止められた。今日から加わる新しいメイドが挨拶をするというのだ。
この家に雇われてくるメイドなんて今更珍しくもないので、わざわざ挨拶なんか必要ないと思った。
「別に挨拶なんか――」
「佑一様ですね!」
俺の言葉を遮るように声がしたかと思うと、一人のメイドが俺の前に進み出て、ぺこりと頭を下げた。
「私、今日から当家に住み込みでお世話になることになりました、染谷(そめや)喜綺と申します。喜綺とお呼びください。よろしくお願いしまーす」
明るく、元気な声で一気にそう言うと、喜綺と名のったそのメイドはもう一度ぺこりを頭を下げたのだが、そのあまりの元気さに俺はしばらく言葉を失っていた。
だが、俺はすぐに現実へと引き戻される。「佑一さん」と、俺を呼ぶ声。そう、それはあいつの声だった。
「あ、奥様」
側にいた使用人と喜綺が再び頭を下げる中、俺はそいつの顔を睨み付けた。こいつの名前は「礼子」。一応、俺の母親だ。もっとも、俺は母親だなんて認めていない。こいつは、後妻なのだから。
そんな俺の視線を受けると、後妻殿はちょっと困ったような顔をした。
「佑一さん、お帰りなさい。この娘は喜綺。今日から、主にあなたの世話をさせようと思っています。年齢はあなたより二つ下の十四歳なので、話も合うんじゃないかしら」
その言葉を聞いて、俺は何となくこいつの思惑が理解出来た。ようするに、俺を懐かせるための工作ということだ。いつまで経っても自分に懐かない俺に、そろそろ痺れを切らせたと言った所だろう。
そう思うと俺はもう一度喜綺の顔を見つめた。さっき、無邪気に見えたその表情も、今見るととても憎たらしく見える。そのままそこにいると、いつ暴れ出してもおかしくないと思うほど機嫌が悪くなったので、俺は早々に自分の部屋に戻ることにした。
部屋に戻った俺がベッドの上で雑誌を読みながらくつろいでいると、ドアをノックする音が響いた。そして、「失礼しま〜す」という明るい声が響く。
「佑一様、お夕食の時間ですよぉ〜」
部屋に喜綺が呼びに来たのだ。でも、俺はしばらく無視し続けた。別に雑誌が面白いからというわけではない。そもそも、俺が雑誌を読むようになったのは、親への反発からだった。
喜綺はそのままドアの側に立ったまま、俺が行動を起こすのを待っているようだった。
「漫画ですかぁ〜?」
「うわ!」
突然、すぐ側でその声が聞こえて、俺は奇声を上げた。見ると、喜綺はいつの間にか部屋に入ってきて、その大きな瞳で覗き込むようにして俺を見つめていた。
「お前、何で入ってきた!」
「はい、聞こえてないのかと思いまして」
怒りの口調で言った俺に対し、喜綺は笑顔でそう答えた。
「……お前、聞いてないのか?」
「はい? 何をでしょうか?」
相変わらずの笑顔。俺は雑誌に目を戻すと怒りを抑えつつ、冷たい口調で言った。
「俺は、食事は自分の部屋で摂るんだよ」
すると、「あ、そうなんですかぁ」という明るい声が部屋の中に響いたので、俺は喜綺が部屋を出ていくと思ったのだが、実際はそんな簡単にはいかなかった。
「でも一人で食べるより、誰かとご一緒した方が美味しくいただけますよぉ〜」
その一言で、俺は切れた。
「うるさいな! 俺に指図するな!」
怒鳴り声とともに睨み付けた俺を見て、喜綺は怯えた表情を浮かべた。そして、「申し訳ありませんでした」と言って頭を下げると、部屋を出ていく。その時、喜綺が部屋の外に出るのと入れ替わりに、他のメイドが夕食を運んできた。
そのメイドは食事の入ったワゴンを部屋の中に入れると、一礼をして出ていった。でも、食欲をそそるようないい匂いが漂っているにも関わらず、イライラしていた俺はとても食事をする気分ではなかった。
「ほら、もっとしっかりなさい」
それは、母親の声。
「あなたは、この結城家の跡取りなんですからね」
いつもの言葉。
「何でこんなことも出来ないの」
出来ないことがあるということは許されない。
「何なんですか、この成績は」
他人に劣ることさえも許されない。
俺の母親は、いつもそうだった。常に俺の尻を叩いて、俺を追いつめ、いい成績を取っても、誉めてくれることもなく、甘えることさえも許されなかった。
いつしか俺は、母親が自分を憎んでいるということを感じ取り始めていた。だから、いつも辛く当たってくるのだと。
目覚めは最悪だった。母親の夢。今は、もういない、五年前に事故で死んだ俺の実母。そして、俺がもっとも憎んだ相手。何で今更、あんなやつの夢を見たのか、俺には判らない。判っていることは、起きたばかりだというのに憂鬱で、頭を抱えるような気分だということだ。
俺が上半身を起こして、ベッドの上で気が紛れるのを待っていると、ノックの音の後にドアが開き、明るい声が部屋の中に響いた。
「佑一様、おはようございまーす。朝ですよぉ〜」
俺は頭を抱えながらその声の主を見つめた。朝だというのに、満面の笑み。見慣れない顔。しばらくして、それが昨日家に来た新しいメイドだということに気がついた。確か、喜綺とか言ったっけ。
「佑一様は、朝もお部屋で頂くんですねぇ〜」
そう言うと喜綺は一度部屋から出て朝食を乗せたワゴンを部屋の中へと運びこんだあと、一礼して笑顔を浮かべたまま部屋を出ていった。
朝から随分元気なやつだと思いつつ、俺はベッドから抜け出して食事を摂る。その時、不思議なことに、さっきまで感じていたいいようもしれない憂鬱感はいつの間にか消えていた。
制服に着替え、家を出ると、いつものように車に乗り込む。そして、使用人やメイド達が頭を下げて俺を見送る中、あいつはいつも二階にあるリビングの窓から俺の姿を見ていた。
それは毎朝のように繰り返される同じ光景だったが、今日は違うことが起こった。いつものように車が走り出そうとしたとき、そのすぐ横を制服に身を包んだ一人の少女が駆け抜けていく。
その少女は後部座席に座っている俺の顔を見ると立ち止まり、笑顔を浮かべて一礼し再び走り始めた。
「あれは、誰だ?」
運転手にそう聞くと、昨日家に来たメイドだという返事が返ってくる。
「昨日来たメイドって……」
俺の知る限り、昨日家に来たメイドは一人しか知らない。
「まさか、今の娘って……」
そうこうしているうちに、俺の乗った車は先に走っている少女に追いつき、そして追い越していった。
すれ違うさいに少女の顔を見つめる。思った通り、その少女は喜綺だった。それも、地元の中学の制服を着ている。その姿はどこから見てもごく普通の女の子そのものだった。
学校でつまらない授業を受け、一日を過ごしたあと帰路につく。車の中から見る外の風景も、いつもと同じ、何一つ変わらない日常。しかし、朝と同様に、この日は少し違っていた。
車が家に着くと、真っ先に家の中から飛び出してくるメイドが一人いた。そして、車のドアを開けると「お帰りなさいませぇ〜」という明るい声とともに笑顔で出迎えてくれる。
もちろん、それは喜綺だった。すでにエプロンドレスに身を包んでいるので、制服姿と違う印象を感じさせている。俺は本当に今朝の少女が喜綺なのかどうか、その顔をよく見つめた。
「あの、佑一様?」
喜綺が困惑したような表情で語りかけてきたので、俺は我に返り、家の中へと入っていった。
「佑一様、何かお飲物でもお持ちいたしましょうか?」
部屋に戻ろうとしている俺の背後で、喜綺がそう話しかけている。俺が、「とりあえず冷たいもの」と答えると、喜綺は「はい!」という元気な声で答え、ぱたぱたという足音を響かせてキッチンの方へと走っていた。
やがて俺が部屋で着替え終わるころに、喜綺はトレイの上に飲み物と、いくつかのお菓子を乗せて持ってきた。
「あの、佑一様。今日も、お食事はお部屋でお摂りになるのですか?」
その言葉を聞いて俺は喜綺を睨み付け、「ああ」と答えた。すると、喜綺は笑みを浮かべて「判りましたぁ」という元気な声で返事をすると部屋を出ていった。
俺は喜綺が出ていったドアをしばらく見つめたあと、机の上に置かれたコップへと手を伸ばし、ストローを使って飲んだ。それは、アイスティーだった。冷たくて、甘さもほどほどのアイスティーが俺の体の中に入っていく。すると、疲れていた体が次第に落ち着きを取り戻していく。
「ありがとう」
自分一人しかいない部屋の中で、俺は誰に言うわけでもなくそう呟いていた。
白い煙が、空高く上っていくのを俺は見つめていた。
「まだ幼いのに、しっかりした息子さんね」
周りの大人達が、そう呟いているのが聞こえた。
「あの毅然とした態度。奥様の教育がよかったのかしら」
あいつの教育。俺にとって、それは苦痛でしかなかった。だからこそ、俺はあいつを、実の母親を憎んだ。苦しみしか与えられない母親。それが、親の愛だという連中がいるが、俺にはそう感じられなかった。何故なら、あいつの目にはいつも憎しみが籠もっていたから。俺は、子供心にそのことを感じ取っていた。
だから、あいつが事故で死んで、俺はほっとしていた。これで、苦しみが消えるのだと思ったから。
当然、涙は出ない。遠い空の彼方に、白い煙となって昇っていくその様を見ても、悲しくはならなかった。
二日連続の最悪の目覚めだ。しかも、またあいつの夢。もっとも、あいつとの決別の夢なので、昨日よりは幾分か気は楽だった。それでも、寝起きがいいほうではない。俺は昨日と同じように、気が紛れるまでしばらく頭を抱えていた。
しばらくして、昨日と同じようにノックの音がしたかと思うと、明るく元気な声が部屋の中に響く。
「おはようございます、佑一様。朝ですよぉ〜」
清々しい笑顔を満面に浮かべて喜綺がたたずんでいる。その笑顔につられるように、俺の気分が次第に晴れていくのが判った。
「おはよう、喜綺」
それは、まったく無意識の反応だった。今まで、朝起こしに来たメイドに対して、挨拶などしたこともなかったのに。ただ、喜綺の笑顔を見ていると、不思議とそう言わなければいけないような気がしたのも確かだった。
俺の返事を聞くと、喜綺はさらに元気な声で「はい、おはようございます」と答え、続けざまに言った。
「佑一様。今日のご朝食も、お部屋でお摂りになりますか?」
「部屋でに決まってるだろう」
少し憮然として、俺はそう答えた。
「では、すぐにお持ちしますね」
笑顔を浮かべてそう言うと、喜綺はぱたぱたという足音を残して部屋から出ていった。
いつも通り朝食を食べ終えたあと、学校に行くために車に乗ろうとした時、背後でなにやらばたばたというやかましい音と、「いってまいりま〜す」という明るい声が響いたので、俺は振り向いた。
昨日と同じように制服に身を包んだ喜綺が家の中から飛び出してくる。そして、俺のすぐ側まで走ってくると立ち止まり、「行ってらっしゃいませ!」と大きな声で言って頭を下げると再び走り出す。その後ろ姿を見たとき、俺は何故か可笑しくなって鼻で笑った。
やがて、車に乗り込んだ俺は、後部座席から辺りを見回しながら喜綺の姿を探す。しばらくすると、道の先に足下がふらふらしながら走り続けている喜綺の姿が目に入った。
喜綺を追い抜いたところで俺は車を止めるように指示をだし、外に出て待つ。やがて、喜綺が俺の姿に気がついて走り寄ってきた。
「ど、どうされたんですか、こんなところで」
「乗れ」
「はい? きゃ!」
息を切らせている喜綺の腕を取ると、有無も言わせずに車の中に放り込んだ。そして、運転手に喜綺が通っている中学へ向かうように指示を出す。
「ゆ、佑一様、困ります。私が後からお叱りを――」
「いいから、静かにしていろ」
喜綺が困ったような顔をして言うのを遮るようにして、俺は言った。すると、喜綺は俺の言った通り、隣で小さくなって静かにしていた。
「あの、佑一様?」
しばらくして会話が無い車内に、喜綺の声が響く。俺は目線だけを動かして、喜綺の顔を見た。
「佑一様は、奥様のことがお嫌いなのでしょうか?」
突然、何を言い出すのかと思えば、とんでもない質問をしてきた。
「あの、お食事をご自分の部屋で摂られるというので、何故かと思いまして、他の方に聞いてみたんです。そうしたら――」
その時、前にいた運転手が軽く咳払いをしたのを聞いて、喜綺は押し黙ってしまった。俺は目線だけを動かし、ルームミラーで運転手の顔を見たあと、一言だけ呟く。
「別に、嫌いじゃない」
その言葉を聞いて喜綺が何かを言おうとしたが、車はすでに中学校に着いていた。自分で車のドアを開け、外に出ると喜綺は俺に頭を下げ、学校の中に走っていった。
「佑一様、使用人をお車に乗せるなど――」
再び走り出した車の中で、運転手がそう言ってきた。
「判ってるよ。今日のは、特別だ」
俺はそう答えると、外の風景に視線を移した。喜綺と同じ学校の生徒達が、歩道にあふれかえり、楽しそうに話をしながら登校していく姿が見えた。
やがて、徐々に生徒の数が減りはじめ、その姿が殆ど見えなくなったころ、俺は静かに呟いた。
「他の連中には言わないでくれ」
すると、運転手はその言葉の意味を察したのか、「かしこまりました」と静かに答えていた。
学校が終わり家に着くと、一人のメイドが出迎えてくれた。
「お帰りなさいませ」
でも、それは喜綺ではなかった。俺は無愛想に返事をすると、家の中に入る。そして、玄関に入ったとき、廊下の先で怒られている喜綺の姿が目に入った。
俺はその姿を一瞥したあと、自分の部屋に戻る。そして、着替えが終わる頃になって、喜綺が昨日と同じようにアイスティーを持って部屋に入ってきた。
「お帰りなさいませぇ〜、佑一様」
元気な声。さっき怒られてシュンとしていた姿を微塵も感じさせない。その姿を見ていると、こちらまで元気になってくるような感じがした。
「ありがとう」
机の上にアイスティーを置いた喜綺に、俺は笑顔を浮かべてそう言った。すると、喜綺も笑顔でそれに答え、思い出したかのように話し出す。
「あ、それとぉ〜、今朝はありがとうございました。わざわざ、学校まで送っていただいて……」
「いや、今日のはただの気まぐれだから。もう次はないからな。それより、明日は、もっと余裕を持って行くんだな」
俺は喜綺をたしなめるように、そう言った。すると喜綺は「はい!」と元気な声で答える。それは、予想したとおりの返事の仕方だった。
「それと、今日俺に送ってもらったことは、誰にも言わない方がいいぞ。周りの者が聞いたら、何を言われるか――」
その時、喜綺の表情が引きつっているのに気がついた。
「どうした?」
「え! いえ、あの……えへへ」
何だか判らないが、苦笑いを浮かべている。
「あの、実は……もう喋っちゃいました」
「……何?」
「いえ、ですから、うれしかったので、帰ってきたとき、皆さんに喋ってしまって……」
今朝、運転手に口止めしたのも無駄だったようだ。それと同時に、俺の脳裏にさっき怒られている喜綺の姿が浮かぶ。
「お前、ひょっとしてさっき怒られてたのは……」
「は、はい。そのことで、きつく怒られてしまいました」
俺は頭を抱えた。使用人が主人の車に、好意とはいえ乗ること事態、古株の連中から見ればとんでもないことだろう。まあ、それを知っていながら俺も喜綺を乗せたので、だから、わざわざ運転手にまで口止めしたのに。
「お前、結構馬鹿だな」
思わず口をついて出た言葉に、喜綺は苦笑して頭を掻いていた。
「彼女が、礼子だ」
親父が一人の女性を俺に紹介した。女性と言っても親父と同じか、やや年下くらいの、いわば「おばさん」だった。
「よろしくね、佑一君」
しかし俺は黙り込み、そいつの顔を睨み付けていた。親父の話では、「新しい母親」だと言う。
その時、俺は思った。また、あんな苦しみの日々がやってくるのかと。そして、こいつのことを「母親」として認めることなど絶対に出来ないとも。
三日連続だ。俺は、起きると同時にそう思った。このところ、よく見る変な夢。それは、思い出したくもない過去の思い出。しかも、よりによって一番思い出したくないことを立て続けに、順を追って見続けていた。
変な感じだ。何故、こんな夢を見るようになったんだろう。しかし、自問してみても、その答えが見つかるわけはなかった。
そうこうしているうちに、いつもの時間になる。
「おはようございまーす。佑一様、朝ですよぉ〜」
今日で三日目の朝。すでに恒例となった、喜綺の朝の挨拶だった。しかし、他のメイド達と違って、その挨拶は独特だと今更ながらに思う。きっと、こんな挨拶をしていることが他の連中に知れれば、また怒られることになるだろうなと俺は思っていた。
やがて朝食を運び終えた喜綺が部屋を出ていったあと、俺は制服に着替えた。そして、運び込まれた朝食に手を伸ばす。やがて、その朝食を食べ終える頃になって、もう一度喜綺が部屋にやってきた。
「あのぉ〜、佑一様。お紅茶はいかがですかぁ〜? 今日は〜、いいお紅茶が入ったんですよぉ〜」
そう言って喜綺は、紅茶とそれを入れるためのカップを乗せたワゴンを運んできていた。俺が「頂くよ」というと、喜綺は笑顔で紅茶を入れ始め、それを受け皿に乗せて俺の所まで運んできてくれた。
紅茶のいい香りが部屋の中に広がる。俺はカップを手に取ると、その香りを楽しんだあと一口すする。すると、口の中にも紅茶の香りがやさしく広がっていった。
「うまいな、この紅茶」
「でしょぉ〜」
紅茶を誉められて、喜綺は満面に笑みを浮かべていた。しかし、そんな和やかな雰囲気は突然水を差された。
「いい香りね」
聞き慣れた声。俺はその声の主を睨み付ける。そこには、あの女がいた。ドアを開ける音は聞こえなかったので、おそらくわずかに空いていたのだろう。
「あ、奥様ぁ〜」
喜綺は、相変わらずの笑顔でそう言うと、ぺこりの頭を下げた。
「いい香りがすると思って来てみたんだけど、お邪魔だったかしら?」
「そんなことありませんよぉ〜。あ、奥様もいかがですかぁ〜?」
俺が睨み付けているのを見て、あいつは困惑したようだったが、それでも意を決したように、「いただこうかしら」と答えて俺の部屋に入ってきた。そして、喜綺から紅茶を受け取ると、手近の椅子に腰をかけてその紅茶をすする。
「美味しいわね、この紅茶」
「でしょぉ〜」
さっき俺が誉めたときと同じように、喜綺は笑みを浮かべた。その喜綺の笑顔を見ていると、この女と一緒にいることさえ苦にならない。
そのあと、俺達三人は時間ぎりぎりになるまで一緒にいた。この女がこの家に来て半年あまり。会話こそ無かったが、僅かな時間とはいえ、同じ空間に一緒にいたのは、これが初めてだったかもしれない。
病院のベッドで、一人の女性が赤ん坊を胸に抱いている。そして、そのすぐ側には男性がその赤ん坊を満面の笑みで見つめいていた。
「名前は、佑一にしよう」
声が聞こえた。佑一。それは、俺の名前じゃないか。じゃあ、この赤ん坊が俺か?
「元気に育って欲しいですね」
女性の声も聞こえる。これが俺の母親か。すると、その二人の顔が映像として浮かぶ。男性は、若いが確かに俺の親父だった。間違いない。でも、女性の方は俺の知っている母親ではなかった。
でも、その顔には見覚えがある。まだ赤ん坊の俺を見て笑みを浮かべるその顔は……
珍しく夜中に目が覚めた。何で、あんな夢を見たんだろう。俺が生まれたときの夢。そんなもの、俺が覚えてるはずないのに。
しばらく考え込んだあと、喉が渇いていた俺は何か飲もうと思い部屋を出る。その時、親父の部屋から灯りが漏れているのが見えた。
親父のやつ、戻ってたのか。そう思った俺は、何となく親父の部屋の前まで行った。夜なので部屋の中の話し声はドア越しでもはっきりと聞こえる。
「佑一は、どうだ?」
親父の声。やっぱり、帰っていたんだ。いつも忙しくて、家にもろくに帰ってこない親父。直接的ではないにしろ、俺は親父に対してもあまりいい印象は持っていなかった。
「元気にしています。でも、まだ……」
女の声。その声があの女、「礼子」の声であることは判った。でも、そのあと、しばらく会話はなかったので、俺が部屋の前から立ち去ろうとしたとき、再び声が聞こえた。
「あの子は、許してくれるでしょうか。あの子を捨てた私を……」
その言葉を聞いたとき、俺はさっきの夢を思い出した。赤ん坊を抱く女性の姿。それは、俺の知っている母親の姿ではない。その女性は、今親父と話しているであろう、あの女の姿だった。
「あの子は、許してくれるでしょうか。母親である私を……」
そして、この言葉とともに、俺の意識は失われていった。
夢だと思った。きっと、また俺は嫌な夢を見ているのだと。でも、夢にしては現実感がありすぎた。
気がつくと、俺は闇の中にいた。何も感じない、何も見えない闇の中に。ここは何処なのか。ふと、そんな思いが浮かぶ。すると、途端に辺りが明るくなった。
そこは、見慣れている家のリビングだった。でも少し違うのは、本来そこに置かれているはずのテーブルや椅子といったものが何もなく、がらんとしていたことだった。
窓が開いている。そして、薄手のカーテンが窓から吹き込む風に揺れていた。俺はふいに、その窓際に歩み寄って、外を眺める。そこにも、見慣れている家の庭が見えた。
しばらくの庭の様子を見つめていると、背後から突然抱きしめられる。誰かと思い、振り返ろうとしたが、不思議と体が動かなかった。
「佑一様も苦しいでしょうけど、奥様も、旦那様も苦しいんですよ」
声がした。それは、何となく聞き覚えのある声。
「すぐに、全てをする必要はないんです。少しずつ、少しずつ始めていけば、いつか必ずその苦しみも消えるはずです」
その言葉と温もりが、俺の心に少しずつ染みこんでいくのが判る。
「心を開いてください。奥様にも、旦那様にも、皆さんにも。佑一様なら出来るはずです。だって、佑一様は、優しいお方なんですから」
気がつくと俺は泣いていた。理由は判らない。ただ、自然に涙が出てきていた。
朝。俺は誰に起こされることなく目が覚め、着替えて部屋をあとにした。そして、リビングの扉を開く。そこには、親父とあいつがいた。
二人の顔が、特にあいつの顔が驚きの表情を浮かべているのが判る。そんな表情をきにしつつも、俺はかつて自分が座っていた場所に腰を下ろした。
親父が、俺に話しかけてくる。昨日の夜、帰ってきたのだと。あいつも、恐る恐る声をかけてくる。俺は、その問いかけに自然に答えていた。まるで抵抗感というものがなかった。
やがて食事が終わり、目の前の食器が片づけられると部屋の中に元気な声が響く。
「おはようございます。お紅茶はいかがですかぁ〜?」
その声を聞いて、その場にいたものが一斉に振り向く。そこには、紅茶を手にした喜綺が笑顔を浮かべてたたずんでいた。
―― この子の笑顔で、何かが動き始める。そんな予感がした。
動かない心(了)
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