VAMPIRE MUSEUM     


旅館松風荘




真っ赤な紅葉が一葉、はらりと地面に舞い落ちた。

その落とし主である樹齢二百年ほどにもなろうかという大木は、盛りを過ぎても今なお美しく色づく葉を、風に任せて、惜しげもなく散らせている。

最も今は、風は吹いていない。だからこそ一葉しか落ちなかったのだ。

静かに小石の上に身を横たえている紅葉に爛火は目を留めた。そして、今しがた吹いた強い風のために散らされた、多くの紅葉のほうにも目をやる。

同じ木についた葉であっても、風に散らされもすれば自ら落ちるものもある。理不尽な風によって散らされた紅葉はさぞ不本意だったことだろう。けれど先ほどの葉とて、自ら落ちる時を決められたかどうかは分からない。

「どちらも運命…ということかのう」

そう呟き、紅葉から視線をはずそうとしたそのとき―

「このようなところで紅葉など愛でているとは、ずいぶんな余裕でございますのね」

背後から投げつけられた愛らしい、けれど冷たい声に振り向くと、冷ややかな目をした冷羽が立っていた。

(そしてこれも運命…なのか?)

爛火は内心うんざりしているのが顔に出ないようにつとめながら、穏やかに言った。

「余裕などと…ただ仕事がひと段落したので、少し休んでおりましただけです」

「ひと段落?」

冷羽が無い筈の眉を吊り上げる。

「まだ帳簿付けが済んではおりませんわ」

「それは夜やろうと…」

「いいえ!こういったことは早め早めにやっておくものでございましょ?それに先ほどまた紅葉が散って…早くお掃き下さいまし!」

帳簿付けなんて普通夜やるものだろうとか、この季節に紅葉が散るたびに庭を掃いていたら、一日中ほうきを手放せないではないか、などと言ったところで無駄なことはよく分かっていた。

「わかりました」

爛火はそう言って素直にほうきをしまってある物置に向かった。表面上はいつも通り、背筋を伸ばし、静かに歩を進めていたが、その実、ひどく疲れを感じていた。




「ああ…何故このようなことに」

事の発端は例によって各層の長達だった。

昨今の財政難に頭を悩ませていた長達は、旅館経営という新事業に着手したのだ。しかし、新事業も何も今まで全く事業などやったことはないのだし、所詮、上には立つが現状を知らぬものたちの考えだと爛火は思う。

そもそも神魔界に旅館など作って、いったい誰が泊まりに来るというのか。旅行する神魔や狐狸妖怪など聞いたことが無い。

確かに場所はいいだろう。

四方を山に囲まれていて、緑も多いし、小さな林や湖もあって散歩するにはもってこいの場所だし、なんと言っても温泉がある。もちろん旅館にはその湯を用いての露天風呂や大浴場、家族風呂に部屋風呂などがある。付近に土産物屋の類はないが、旅館の中に大きな売店がちゃんとある。

しかし、どんなにすばらしい場所に建っていようと、どんなに設備が良かろうと、監視者が営んでいる旅館になど誰が来るだろうか?いや、誰も来ない(反語)。

現に開店してからまだひとりの客も来ていない。当たり前だ。

自分だってできることならこんなところに来たくは無かった。ただ、長達にオーナー兼大女将に任ぜられた冷羽に、

「支配人兼女将にしてさしあげます」

と言われ、半ば無理やりに連れて来られただけなのだ。女将といっても、仲居の一人もいない現状では、一日中忙しく立ち働かされている。

当初、長達は美夕にも手伝うよう命じたらしいのだが、

「冷羽の下で働くぐらいなら死んだほうがマシ」

と突っぱねられてしまったそうだ。

冷羽は激怒したらしいが、爛火は臆せずそんな態度をとることのできる美夕が心底うらやましかった。自分もそんな風に、たとえ突っぱねることができずとも、うまい言い訳を考えて逃げればよかったと考えたがもう遅い。それにあの冷羽相手にうまい言い訳というのも思いつかなかった。

知らず、溜息を吐いてしまう。と、物置の後ろの茂みが揺れた。




「どうした。溜息など吐いて」

山菜の入った籠を片手に、着物姿の青年が竹でできた柵を乗り越えながら言う。

「葵…またそのようなところから。冷羽殿に叱られますぞ」

葵はそれには答えず、爛火の手の中のほうきを見る。

「ああ…また落ち葉の掃除じゃ。帳簿つけもあるしのう」

つい、ぐちめいたことを洩らしてしまう。信頼する相手とあっては気も緩むのだ。

「今時分に帳簿付けとは…。さては、今日も客の来ないことを悟ったか?」

爛火は苦笑する。

葵もなかなか手厳しい。彼も、来もしない客に備えて、毎日、魚やら山菜やらを取りに行かされるのに嫌気がさしてきているようだ。

「仕方あるまい。このようなところに泊まりに来るものなどあろうはずがないのじゃから。今は一刻も早く長達が目を覚ましてくれるのを待つだけじゃ」

葵も黙って頷く。

二人ともこのときは、長達がこの下らない試みを諦める日までこの奇妙な旅館に来るものなどいないに違いないと確信していた。だがしかし、この推測がその日の午後には外れてしまうことを、このときの彼らは知る由もなかった。




最初に気づいたのは一狼だった。

そのとき、一狼は煮炊きに使うため、近くの山で手頃な枯れ木を探しているところだった。

「あ〜あ、まったく。めんどくせーよなあ。いっそこの辺の木を…いや、ダメだダメだ。生木は煙がひどいからなあ」

薪を火にくべるのはきっと自分か葵だ。もしかしたら爛火がやると言うかもしれない。二人に煙たい思いはさせられないし、自分だって嫌だ。

一狼は再び枯れ木を探し始める。その間も文句の口が止まらない。一狼がおおっぴらに文句を言えるのは冷羽や松風の目の届かないこの山奥くらいだ。だからつい、声も大きくなるし、長くなる。

「ったく。あいつらもちょっとはた手伝えってんだよ。大体、あの人形ヤローなんか自分の名前を旅館の名前にしてるくせにほとんど姿見せねーし、たまに現れたと思ったら、指図するばっかで自分じゃなんにも…?…あれ?…あいつら…?」

一狼の目には、山のふもとの、道とも呼べないような道を旅館に向かって歩いていく肩までの黒髪と薄桃色の着物の少女と二つに結んだ髪と黒いワンピースに白いエプロンをつけた少女、そして彼女の肩にとまる、その長い耳で方目を隠したピンク色の生き物が映った。




「こんにちはぁ」

「突然ごめんなさい」

それから数十分の後、夕維と喜綺、そして死無を伴った一狼が戻ってきたときの、四人の驚きようは言葉で言い表せないほどだった。

松風を除く三人はすぐにいつもの冷静さを取り戻したものの、内心、この奇妙な取り合わせに、まるで狐につままれでもしたかのような心持がしていた。

「ようこそお越しくださいました。旅館松風荘へ。どうぞごゆるりとおくつろぎ下さいまし」

冷羽は先ほどの狼狽をどこかに押しやり、気を取り直してそう言った。それも常ならぬ優しい声で。

「あっ!違うんです。私たち此処のこと聞いてお手伝いしようと思って」

「そうそう。だから私たちお客さんじゃないんです」

「あたいは客のほうがまだマシだって言ってるのにさ」

死無の言葉は無視して冷羽は二人の申し出を断った。

「せっかく此処までいらして下さったのでございましょ。なら、お客様として丁重にお迎え致しますわ。それに人手なら足りておりますもの」

「あ…でもぉ、ねぇ?」

「悪いです、そんな…」

「ご心配なく。爛火殿はとても立派な女将でいらっしゃるから、旅館内の仕事は全て滞りなく順調ですわ。妾もとても助かっているのですよ」

「わあっ!すご〜い」

「爛火さんが女将なんですか?」

冷羽に微笑みかけられ、夕維や喜綺に称賛の声を掛けられても、曖昧に笑うことしか出来ない。冷羽は単に開店以来、初めての客が欲しいだけなのだ。それは分かっている。だからといって、果たしてこの二人を正当な客と呼べるものだろうか?

それに夕維が来たとなると、今まで知らぬ存ぜぬを通してきた美夕や、あのシの青年も来ることになるだろう。そして美夕が来るということは、その従者も来るということだ。               波乱の予感を感じて、ますます心の重くなる爛火の耳に、冷羽の楽しそうな声が聞こえてきた。

「爛火殿。帳簿を書き直しておいて下さいましね」




「わあ〜、すごいごちそう!いいんですか?」

「ほんとに美味しそう〜。こんなの見たこと無いです」

老木の風合いを殺さぬよう、上品な赤銅色に塗られた座卓の上に並ぶ、山の幸をふんだんに使った料理の数々に夕維と喜綺は目を見張った。 

「どうぞご遠慮なくお召し上がり下され」

爛火の言葉に二人は落ち着かない様子になる。

「どうなされた?お二人とも?」

「なんか爛火さんにそんなに丁寧にされると…」

「ただでさえお手伝いするつもりがこんなことに…」

爛火は思わず微笑む。二人の遠慮深さや思いやりに心の中が暖かくなるのを感じた。

「良いのじゃ。もともと一人の客もいなかったのじゃからの。手伝ってもらうより客として泊まってくれたほうが我々も有り難い。遠慮などせず、さ、召し上がられるが良い。初めての客じゃから葵も腕を振るったのですぞ」

「はい。じゃあ遠慮なく頂きます」

「これ、葵さんが作ったんですね〜。意外なようなそうでもないような…」

爛火の言葉を聞いて一応は安心したのか、二人は笑顔に戻り、料理に箸をつけ始めた。

竹の子、人参、れんこん、椎茸などが入った炊き込みご飯。こごみやぜんまいの天ぷら。ふきの煮物。インゲンの胡麻味噌和え。長ネギを散らしたとろろ汁…。

笑いさざめきながらそれらを口に運び、いちいち感心したり、作り方を聞いてみたりする彼女たちの様子は爛火にはとても可愛らしく思えた。

さて、そろそろ戻ろうと腰を上げかけたとき、夕維の弾んだ声が聞こえてきた。

「爛火さん、あれって福寿草ですよね?」

「ああ、そうじゃ」

夕維が示している床の間の素焼きの白い壷には、黄色い花が生けてあった。

毎日、客室に花を飾るのは女将の仕事だ。たとえ客が来ようと来なかろうと、それは同じであり、今朝もこの部屋に福寿草を生けたのは爛火自身だ。

そのときは、この花がこうして人に見られることになろうとは思いもしなかったのだが…。

「福寿草の花言葉って『幸せを招く』なんだって。いつもまわりのことを考えてる爛火さんらしいね」

喜綺は爛火に笑顔を向けながらそう言うと、再び花に目をやった。

「ほんとね」

笑顔でうなずきあう夕維と喜綺に反して爛火は当惑していた。

今朝、この花を飾ろうと決めたときは、ただその明るい黄色が気に入って―そう、少しでも気が晴れるかもしれないと思っただけだ。もちろん花言葉など知らなかった。そう話すと、二人とも微笑んでこう言った。

「だから、その気遣いですよ」

「たとえ花言葉の意味なんか知らなくても、お客さんが来なくてがっかりしてる皆を励まそうとして選んだ花なんでしょう?」

客が来ないからがっかりしている訳ではないのだが…。しかし、そんなふうに自分を見てくれていたのかと思うと少々気恥ずかしい。どうしようかと思っていると夕維が話題を変えてくれた。

「そういえば喜綺、よく知ってたね。福寿草の花言葉なんて」

「えへへ…最近ちょっとこってるの」

「こる…とは?」

「いろんな花言葉を調べて、誰かに合ったのを探すっていう遊びなんです。やってみると結構楽しいんですよ。花言葉って無数にあるし」

喜綺は嬉しそうに続ける。

「たとえば爛火さんなら、ダリアの『エレガンスと威厳』とか。花菖蒲の『優雅な心』とか、アリッサムの『落ち着き』とかが合うと思うんです」

「わあ!素敵!」

夕維が歓声を上げる。ここまで褒められると、なんといっていいか分からず爛火は黙っている。

「それで、葵さんは、松の『厳粛』、ノコギリソウの『勇敢』、ラベンダーの『沈黙』なんかがぴったりと思うんですよ」

「…葵の花の花言葉は知らぬのか?」

「親切な気質と母の愛です!」

「………」

「………」

「…どっちかというと爛火さんっぽいみたいだね」

「え〜っと、でね、一狼さんはサルビアの『エネルギー』、ユーチャリスの『清らかな心』、シネラリアの『常に快活』!」

最後の二つは夕維と喜綺にもぴったりだと爛火は思った。

「それで、一狼さんと爛火さんは、矢車菊の『信頼、教育、貴方は私を明るくする』、葵さんと爛火さんはゼラニウムの『信頼と尊敬』、三人でアカンサスの『離れない結び目』!」

爛火は口の中で繰り返す。離れない結び目。

「良い響きじゃな」

喜綺もにっこりと笑う。

「それでね、桜の花言葉っていくつかあるんだけど、私が貴方にぴったりだと思うのは『貴方に微笑む』なの。え〜と、あとは…」

喜綺は腕組みをして思案顔だ。その様子がなんとも似合わなくて爛火は、つい笑ってしまった。

「ラヴァさんには、梅の『高潔、忠実』、桔梗の『誠実、従順、変わらぬ愛』、エレンジウムの『秘密の愛情』、ヘリオトロープの『献身的な愛』、紫陽花の『辛抱強い愛情』とかかなぁ〜」

…自分にはあまり、秘密にはしていないように見えるのだが。それにしても、あの二人は喜綺にいったいどんなところを見せているのか。爛火は人事ながら心配になった。

「美夕が時々言う『永遠』っていうのもあるんです。沈丁花の花言葉なんですけど。似たのでは麦藁菊の『永久花』とか、蔦の『永遠の愛』なんてのも」

喜綺はやっとそこで息継ぎをした。

「冷羽さんなら…う〜ん、アザミの『厳格、批評家、独立』とかアマリリスの『誇り』とか。あっ、シンビジウムの『高貴な美人』って冷羽さんにも爛火さんにも合ってますよね!」

冷羽と一緒…。

「大体こんなとこかなあ。今私が知ってるうちで、だと」

「これほど沢山知っておれば、もう十分じゃろう」

「本当、すごいね。喜綺」

「ごめんなさい。なんか私一人ではしゃいじゃって」

「ううん、とっても面白かったよ。自分のはちょっと照れくさいけど」

「私もじゃ」

お世辞ではなく、心からそう思う。久しぶりに楽しいひと時を過ごさせてもらった。ただ、何故か那嵬の話が全く出てこなかったのが少し気になるのだが…。

「ふふふっ…」

「くすくす」

「ふふ…」

三人で笑いあう。しかし、この和やかな雰囲気はすぐに壊されてしまった。

ドタドタ…!!ガララッ!!

けたたましい足音とともに、勢いよく障子が開かれた。廊下には憤怒の表情の美夕が立っていた。

「夕維っっ!!!」

「あっ、美夕」

「何してるの…?」

急に声のトーンが落ちる。しかし、彼女を知るものなら分かるだろう、これは嵐の前の静けさというやつだ。

「あ、美夕も食べる?おいしーよ」

「おいしーよじゃないわよっっっ!!」

美夕の怒りが爆発した。

「どーして冷羽のやってる旅館なんかに行くの!!」

「えっ…、だって爛火さんたちだけじゃ大変かなって…」

「客が一人もいないのに大変も何もないでしょ!!」

全くもってその通りだと爛火は思った。と、

「夕維…」

障子の影から、いつもよりも、もっと不機嫌な顔の那嵬が現れた。

「…どうして俺に黙ってこんなところに来たんだ?」

今にも溜息を吐きそうな口調でそう言う。

「ほっといてよ、那嵬には関係ないでしょ?」

どうしたことか、夕維までむっとした表情で言い返す。

「お前、いい加減にしろよ…」

眉根の皺をひとつ増やして、語気も荒くそういった那嵬に、夕維よりも早く食ってかかったのは美夕だった。

「ちょっと、那嵬!私の夕維になんてこというのよ!」

「誰がお前のだ!?」

「大体、此処まで連れてきてあげたのは誰だと思ってるの!?」

「たまたま一緒になっただけだろうが!こっちはお前なんかに連れてきてもらった覚えは無い!それにこの場所を見つけてきたのはお前の下僕でお前じゃないだろう!」

「ラヴァが見つけてきたなら私が見つけてきたも同然よ!」

「どんな理屈だ、それは!」

「うるさいわね!」

双方一歩も引かない。ラヴァはいったいどこに行ってしまったのか。まずは、現状把握とばかり、どうせ止められそうも無い美夕を置いて、葵のところにでも行っているのか…?…有り得る。

「あのお〜、二人とも落ち着いてくださいぃ〜。一緒にご飯食べましょうよ〜。ほら、人間、お腹すくと怒りっぽくなるって言うし〜」

「冷羽の旅館の食事なんか要らない!それに私たちは人間じゃないでしょ!!」

美夕の容赦ない突っ込みに喜綺はしゅんとなる。

その姿を見て、さすがに大人げなかったと、美夕が反省しかけたとき、廊下の奥から彼女の天敵の声が響いて来た。

「まあ…騒々しいこと。何事でございます?」

「出たわね!人さらい!じゃなかった、吸血姫と神魔さらい!」

喜綺に突っ込んだ手前、きちんと訂正しながら、冷羽に向かって美夕はそう言い放つ。

「人さらいとは失礼な。訂正なさいませ」

冷羽は一気に不愉快そうな表情になる。しかし、そんなことで怯む美夕ではない。

「訂正するのはそっちでしょ。私が言ったのは吸血姫と神魔さらいよ」

「まあ!小憎らしいこと。夕維殿や喜綺殿とは随分な違い。まこと夕維殿はそなたの血を受けているのでございますか?ちっとも似ていない…美夕、そなたのぶしつけで生意気な態度とは…」

「なんですって!?夕維は私の妹、私の娘なのよ!それをあんたなんかに…」

「あ〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜っ!!」

突然の夕維の絶叫にその場に居た全員が彼女のほうを見た。

「あっ、あの、ほら、そう、あの…温泉!!そうそう!温泉に入らなきゃ!」

明らかに焦りながら、それでも笑って夕維はそう言った。

「温泉…?いきなり何を言うの?」

唐突過ぎる提案に、美夕だけでなく、冷羽までも怪訝な顔をしている。すかさず、喜綺が加勢する。

「そう、そう。温泉、入りたいなって思ってたんですぅ。死無さんはもう先に入ってるみたいだし…。ね、みんなで行きましょう!」

「うん、うん。行こう、行こう!」

二人はあっけにとられている一同の手をとり、背中を押し、今のうちとばかり、有無を言わさず浴場のほうへ連れて行った。

爛火は自分もその波に巻き込まれながら、二人の行動力に感心した。

多少強引ではあるが、こうでもしなければ美夕と冷羽の争いは止められなかっただろうし、そうなればこの旅館はめちゃめちゃになり、巻き添えも出るだろうことは分かりきっている。そして、こんな止め方ができるのは自分たちだけだと、きちんと自覚し、行動に移せる―夕維も喜綺も、一見ぽやんとしているようで、なかなかしっかりしている。ただ、先程の那嵬とのやり取りでの夕維らしくない様子、三人で話していたときに感じた違和感、そして、今もまた真っ先に美夕と那嵬を連れて行くものと思っていたのに、那嵬の方は見もしなかったことが少し気に掛かるのだが…。




鴬張りの長い廊下を進んで行くと、突き当りに脱衣所がある。扉のついた白木の棚が並び、一番上には清潔なタオルが収納されている。床は板張りになっていて、萌黄色のマットが敷いてある。これは使う度に一狼が換えているので、水滴ひとつ付いていない。そして、その先は露天風呂だ。

「わあ〜、すご〜い。ねえ、美夕。とっても素敵ね」

「ふうん…、まあまあ…ね」

数多の山々が望めるこの露天風呂の素晴らしい景色には、美夕もまんざらではないようだ。

「ねっ、早く入ろう?爛火さんも!」

「ああ…そうじゃの」

大勢のほうが楽しい、という夕維と喜綺の言葉に半ば押し切られる格好で、爛火も一緒に来ていた。

冷羽は大女将たる自分が、客と一緒に入浴する訳にはいかないと言って断ったが、美夕と一緒に風呂になんて入りたくないというのが本音だろう。本来なら女将である自分もこの場は辞退すべきなのだが、何故か当の冷羽が、「お客様のお相手をするのも女将の仕事のうちでございましょ」と言って同行を勧めた。いったいどういう風の吹き回しだろう。爛火は不思議でならない。

「籠、使います?」

「すまぬ」

喜綺が差し出してくれた竹製の脱衣籠を受け取る。

まあいい。冷羽の真意は図りかねるが、今は忘れて、ゆっくり湯に浸かるとしよう。幸い、夕維がずっと傍に居るおかげで美夕の機嫌も大分直ったようだ。もしかすると、冷羽が自分を此処に来させたのは、なるべく美夕の顔を見なくて済むように時間稼ぎをさせようということだろうか?…いや、今は忘れよう。

ぺた、ぺたん。

「わああ〜、広〜い」

石の床に足を踏み出し、岩風呂に近づいた一同は改めてその大きさに目を見張った。此処の掃除は一狼の担当なので、女将である爛火もこうして間近で見るのは初めてだ。

「みんな、何、ぼ〜っとしてるんだい。早く入っといでよ」

「あっ、死無さん」

岩陰からピンク色の、うさぎに似た生き物が姿を現す。もちろん、うさぎではない。しーな。音だけなら可愛い名前の―彼女も神魔である。

良く見ると、この露天風呂には周りだけでなく、中央にも幾つもの岩が点在しており、その陰は死角になっている。

「来たときからずっと入ってたの?よくのぼせないわね」

美夕は呆れ顔だ。

「あたいがそんなヘマする訳ないじゃないか。いいから早く入りなよ。いい気持ちだよ」

死無の言葉に夕維と喜綺が、ほとんど飛び込むようにして湯に入る。美夕も夕維に手を取られ、水しぶきを上げながら転がり込むように入った。というか、落ちた。爛火もそれに続く。もちろん静かに、ではあるが。

「あ〜、い〜気持ち!」

「ほんと、ねえ、美夕?」

「まあ悪くないわ」

「疲れが取れていくようじゃ」

全員が湯船の中の岩に腰を下ろし、ゆっくりと手足を伸ばす。

「ここが冷羽の旅館じゃなかったら。もっと良かったのに」

美夕はそう言いながら頭の上で手を組み、大きく伸びをした。

「冷羽殿のものというわけでは…」

「やめてよ、爛火だって分かってるくせに。長様たちは、何もかも冷羽に任せてほったらかしじゃない。実質的にはここは冷羽のものも同然だわ」 

「そうじゃの…」

爛火はそれだけ言うと沈黙した。しかし、その沈黙は肯定の意味だ。だからこそ他に言うべき言葉が見つからないのだ。美夕もまた黙っている。風が木の葉を揺らす以外、音のない時間が流れる。

やがて、沈黙に耐えられなくなったのか、喜綺がことさら明るい声を出した。

「でも驚いた〜。美夕たちが来るなんて」

「それよ!!」

美夕がはじかれた様に夕維に向き直る。

「ずっと聞きたかったのよ。ねえ、夕維。どうして喜綺や死無と三人だけでこんなところまで来たの?」

「え…?それは…。ほら、那嵬ってあんまり旅館のお手伝いとかしなさそうでしょ?だから誘わないほうがいいかなって…」

「うそ。ほんとは那嵬とけんかしたんでしょ」

美夕は落ち着きなくさまよう夕維の瞳をしっかりと見つめ、ごまかしは効かないとでも言うように、はっきりとした口調でそう言った。

夕維は一瞬、ひるんだ表情を見せ、しかし、すぐにいつも通り微笑んでみせた。

「やっぱりばれちゃうね、美夕には」

やはり、と爛火は思う。先程三人で話していたとき、那嵬の名前が出てこなかったのは偶然ではなかったのだ。

偽物の微笑みはすぐに消え、夕維の表情に翳りが落ちる。

「そんな顔しないで」

美夕は夕維の傍へ行くと、顔を覗き込むようにして話しかけた。

「あなたにそんな顔させたいわけじゃないわ。可愛い夕維。私の妹、私の娘…。分かってるでしょう?私はいつでもあなたの味方よ。なんでもあなたの望むようにしてあげる。けんかの原因だって話したくないなら言わなくてもいい。もう顔を合わせたくないなら、このまま私と一緒に行ってもいい。でも」

一息吐いて美夕は続けた。

「もし仲直りしたいのなら、それだってもちろん手伝うわ」

夕維が顔を上げる。

「…美夕、…ありがとう」

「あの仏頂面のところに可愛い夕維を帰すのは不本意なんだけど」

美夕は、いたずらっぽく笑って見せる。

「そうだよ、夕維。私も手伝うよ!仲直りしよう」

「あたいも手を貸すよ〜」

喜綺と死無も賛同する。

「ありがとう、みんな…。でも…」

「まずは理由を聞かせて貰えるかの?」

ためらう夕維に爛火が穏やかに声を掛けた。




スパッ。

「だから別に何も無いと言ってるだろう」

シャッ。

「そうは見えなかったがな」

ズバッ。

「ああ、確かに変だった」

「お前、一体どこで見てたんだ?」

「丁度、中庭の手入れをしていてな、聞こえて来たのだ」

那嵬と葵の剣、ラヴァの爪が次々と薪を割っていく。

薪を蓄えておく粗末な小屋の前に備え付けられた、水道の石の部分に腰掛けながら、一狼はその異様な光景を眺めていた。

彼はついさっき、今日の分の清水を川上から此処まで運んできたばかりで、今は小休憩を取っているところだ。一日分、しかも急な来客の分までの水を、険しい山道を何往復もして運ぶのは、いくら神魔とはいえ、かなり辛い。

それにしても、あんなに沢山の薪を割ってしまって、一体どうするつもりなのだろう。旅館で使うにしては多すぎる。そもそもあんな大量の薪を必要とするほど、多くの客が来る筈が無いのだ。いや、来てもらっては困る。

彼が今腰掛けている水道は実はただの飾りであり、その本来の役目を果たすことは出来ない。

当初は地下水を汲み上げ、それをこの水道から出せるようにしようと考えていたらしのだが、水脈の位置や深さが予想とはかなり違っていたようで、結局その話は立ち消えになり、毎日山奥まで水を汲みに行かなくてはならなくなった。

だから、客が増えるということはそれだけ水汲みが大変になるということなのだ。

それにしても何だかやりにくそうだ、もう少し離れてやればいいのに、と思う。

「本当は何か諍いでも起こしたのではないのか?」

「えっ?那嵬、喧嘩したのか?誰と?」

一狼は身を乗り出して話に加わろうとする。

「うるさい!俺は喧嘩なんてしてない!!」

那嵬が叫んだ。

「落ち着け。別にお前を責めている訳ではない。私は只、諍いがあったのかどうか知りたいだけだ」

「お前には関係ないだろう!」

苛立ちを露にして自分を睨み付ける那嵬に、ラヴァは静かに続けた。

「いや、関係はある。もし本当にお前たちが諍いを起こしているのなら、美夕は夕維を連れて行こうとするかもしれん」

那嵬が絶句した。

「考えられないことではないな。いや、大いにありうる」

葵も納得したかのように、かすかに頷いた。只、その言葉には彼らしくも無く、多少煽る様な響きが混じっていた。

「あ〜、美夕ならこれ幸いと連れてっちゃいそうだよなあ」

一狼は腕組みをして何度も首を縦に振っている。いつの間にか、水道から降りてこちらにやってきていた。

「はっ、勝手にすればいい。連れて行きたきゃ勝手に連れて行けばいいんだ」

那嵬は、三人に背を向け、ふてくされたようにそう言うと、最後の薪を放り投げ、剣で四つにした。

「那嵬、虚勢を張るのは止めろ。夕維がいなければ困るのだろう」

「だからこそ此処まで追ってきたのではないのか?」

こいつら普段はむっつりと押し黙っているくせに、こんなときばかりやけに饒舌だ。やっぱり主人の居ない所では開放的になるのか?

腹立ち紛れにそんなことを考えてみるが、確かに二人が言った通りではあるのだ。それにここまで何もかも言い当てられて、これ以上否定できるはずもなかった。

「…ああ、その通りだ」

やがて那嵬は諦めたように剣を収めて、再び向き直った。

「…それで、原因は何なのだ?」

「どうせまた那嵬が怖い顔で怒って泣かせたんだろ」

「一狼」

葵がたしなめる。一狼は口を尖らせて、その場を離れたもののやはり気になるらしく、こっそりと様子を伺っている。

「此処まで来たんだ。話してくれ、那嵬」

「三人寄れば何とやら、と言うだろう。何かいい知恵が浮かぶかもしれんぞ」

「はいはい!もう一人いるんだけど!!」

見れば一狼が手を高々と上げて、必死に自己主張している。当たり前だがかなりのふくれっ面だ。

「すまん」

葵が彼には珍しく、微苦笑しながら詫びた。その様子をやはり笑みを含んだ瞳で見つめていたラヴァが、視線を那嵬のほうへと戻す。那嵬は葵と一狼のほうをちらりと見やると、呆れたようにひとつ溜め息を吐いてこう言った。

「わかったよ…」




「とっても可愛い三毛猫だったのよ」

夕維が愛しそうな瞳で言った。

「廃工場で見つけてね、那嵬には内緒でミィちゃんって、名前も付けたの」

夕維らしい、と爛火は思った。美夕はと見ると、彼女もまた優しげな瞳で、けれど決して嬉しそうでも楽しそうでもなく、静かに聴いていた。彼女にも何か覚えがあるのかもしれない。

「それで…?」

美夕が先を促す。

「それでね…」




「俺は止めろって言ったんだ。だってそうだろう?俺たちはシを追ってるんだぞ。ましてや人じゃないんだ。猫なんか飼える訳がない」

「ああ…。私にも覚えがある。美夕に猫を飼いたいと言われて」

「止めただろう!?」

「ああ」

那嵬は息を吐いた。

「夕維は、こっそり名前も付けてた」

腕を組むと、苛立たしげに辺りを歩き回る。

「毎日、廃工場まで食べ物を運んで。俺は―もう見て見ぬ振りをした。どうせ止めたって行くんだ。それに」

那嵬は言葉を切った。

「ああ。分かる…」

ラヴァは、恐らく那嵬も経験したであろう―身体の芯から暖かなものが湧き出てくるようで、それでいて、その心地良さを自ら振り捨てなくてはならない―あのやるせない気持ちを思い出していた。

柔らかな毛並みの子猫を抱いて、幸せそうに微笑む美夕の姿―いつまでも見ていたいと思いながらも、そんなささやかな幸せに浸ることすら許されない―彼女の立場を思い出させなければならない自分自身が腹立たしかった。

あのとき、自分は出来る限り感情を含まない声で、あえて突き放すようにこう言った。

「いけません」「貴女は監視者なのだから」―と。

美夕は返事をしなかった。しかし、もう二度と猫を飼いたいとも言わなかった。その後も時折、猫のもとへと行っていたようだったが、やがてそれもやめた。

きっと那嵬もそうなのだろう。わざと冷たいことを言って突き放す。けれど、その後はきっとすぐに諦めると自分に言い聞かせながら、本当は、ほんの少しの間でもあの幸せそうな表情を見ていたいだけの、自分に負けてしまう。

「そのうちやめるだろうと思ってたんだ」

先程よりは落ち着いた様子で、足元の小石を見つめながら那嵬が続ける。

「だけど、ある日…」




「いなくなってたの」

「いなくなった?」

繰り返す爛火に夕維は、こくりと頷く。

「多分、もともとは部品とか入れてたんだと思うんだけど、大きなプラスチックの箱があってね、その中に毛布とか入れてあげて、いつもそこに居たの。なのに」

「工場の中のどこかに、もっと暖かいところを見つけたってことも…」

喜綺の言葉に夕維は首を振る。

「工場の中は全部探したの。それに、いつもなら何処にいても名前を呼べば来てくれたのに…」

ちゃぷん。

夕維は湯船の中で組んだ手を伸ばした。

「工場の中や、他にも行きそうなところは全部探したけど、何処にもいなくて…でも諦め切れなくて…。毎日もう一度あそこを探してみようか、でも無駄かもって思ったり。三毛猫を見かけるたびに名前を呼んでみたりして…。でね、私がそんなだから、とうとう那嵬を怒らせちゃって、『いい加減にしろ!そんな猫もうとっくに死んだに決まってる!』って…」

「言い過ぎだわ」

美夕が眉間にしわを寄せる。夕維が笑って応じた。

「悪気は無いの、那嵬も。でも私もいらいらしてたから…それでけんかになっちゃって。那嵬のところを飛び出して、一人で林の中を歩いてたらちょうど喜綺と死無に会って」

「この旅館の話をしたんだよね」

喜綺が後を続けた。

「それでちょっと行ってみようかってことになったのさ。そのときからまあ、様子が変だなとは思ってたんだけどね。いつもならあの仏頂面に何も言わずにこんな山奥まで来るはずないからね」

「どうして教えてくれなかったの?死無」

美夕が厳しい声を出す。

「二人が心配だったんだよう。美夕に言いに行ったら、その間二人だけで放っておくことになるんだよ?」

「その割には着くなり二人を放っぽって温泉三昧だったじゃない」

死無の弁解は美夕に軽く一蹴されてしまった。

「そ、それはほら、爛火が見ててくれたからね。ねえ、爛火?」

「はて、二人を部屋に案内する前から死無の姿は無かったように思えたがのう…?」

「そ、そりゃないじゃないか。爛火〜」

笑い声が上がる。見れば、美夕も苦笑している。どうやら本当に怒っていたのではないようだ。

「夕維」

爛火は姿勢を正し、夕維に向き直る。

「先程の猫のことですが…」

夕維の顔が一気に真剣で、それでいて不安そうなものに変わる。

「飼っていた猫が突然居なくなる、というのは実はよくある話なのじゃ。それはな夕維、猫の山に行っておるのじゃ」

「猫の山?」

夕維も他の三人も不思議そうな顔をする。

「そう、猫の山じゃ。猫というのはある日、自分はこのままではいけない、まだまだ学ばねばならないことが多くある、と気づくそうじゃ。そして、仙猫に教えを乞い、修行を積むために猫の山に行くそうじゃ。いつか、立派な猫になって飼い主の元へ戻ってくるために」

四人ともぽかんとした顔をしている。

「―と、まあこのような伝説があるのじゃが―」

爛火は夕維に笑顔を向ける。

「気休めぐらいにはなるかのう?」

夕維の顔に微笑が広がっていく。

「…いいえ!気休めなんかじゃ…、そう、そうですよね。ミィも今頃きっと猫の山で頑張ってますよね…!」

「その修行ってどれくらいかかるんですかぁ?」

喜綺が素朴な疑問を口にする。

「そうじゃの。まあ、百年とか二百年とか、余程短ければ五十年、八十年、長ければ五百年などということもあるらしいが」

「え〜?そんなに?」

「いいんです、私、待ちます。いくらでも。だって、吸血姫の時間は長いんだもの。ねえ、そうよね?美夕」

晴れやかな笑顔でそう話す夕維に美夕も目を細める。

「ええ、その通りよ。私たちには時間はたっぷりあるわ。ゆっくり待ちましょう」

爛火がふと見ると、美夕がこちらを見ていた。目が合うと、やわらかく微笑んで微かに頷いた。彼女なりに感謝の意を示しているようだ。爛火も同じように微笑み返して見せる。

「わあ…!見てください。とっても綺麗!」

喜綺が指差した先では橙色の太陽が、山吹、朱、群青に彩られた空を背に、山間に身を沈めようとしているところだった。




「…それは…少々言い過ぎたのではないか?」

「ああ…、私も同感だ」

「那嵬、ひでー」

「……」

那嵬は黙って薪の山の上に腰掛けた。いなくなった猫を探し回る夕維に向かって那嵬が言ったという言葉を聞いて、他の三人は渋い顔をしている。

「…確かに、言葉は悪かったと思ってる。けど、その通りだろう?あの猫は確実にあいつより先に死ぬ。いや、あの猫じゃなくったってそうだ。たとえ夕維が吸血姫じゃなかったとしても、どんな猫でも先に死んでしまう。それはそれで自然なことだろうと思う。人間なら、猫が先に死んでしまっても、悲しくてもそれは当たり前のことだと―受け入れられるだろう。だけどあいつは人間じゃない、吸血姫なんだ。人間にとっては当たり前でも、あいつは―猫を先に亡くすことで、今までに自分を置いて逝ってしまった家族や友人のことを、また思い出すんじゃないかって…。自分の時間が周りとは違うなんて、嫌でも自覚してる!なのに、わざわざ、こんな形で思い知らせなくてもいいだろう…。

「那嵬…」

呟いたのは誰だったのか。膝の上で組んだ両手に顔を押し付けるような格好で、独白を続ける那嵬に、それ以上、誰も何も言わなかった。

「シを追って学校に潜入するときもある。だけどそれはほんの一時だ。夕維だけじゃなく、相手にとっても一生のうちのわずかな時間なんだ。だが猫となると…」

そこまで言うと弾かれたように立ち上がった。

「いっそ割り切ってしまえばいいのにと、いつも思う…」

息を深く吸い込む。

「俺らしくもない、喋りすぎたみたいだな」

そう言って立ち去ろうとしたそのとき。

「ちょっと待てよ!」

一狼が大声で那嵬を呼び止めた。

「なんだ?」

那嵬は立ち止まりはしたものの、振り向きもしない。

「薪、結ぶの手伝えよな!」

「はぁ?」

那嵬は思わず間の抜けた声を上げ、振り向いてしまった。

固唾を呑んで一狼の行動を見守っていた葵とラヴァも、狐につままれたような顔をして立ち尽くしている。

「…お前、何言って…?」

「割るだけ割っといて後はしらんぷりか?割るより結ぶほうが大変なんだぞ!こんなに沢山、どーすんだよっ!?」

一狼は薪の山を指差すと、すごい勢いで那嵬に詰め寄った。

「―!分かった!片付ければいいんだろう!片付ければ!」

うんざりした様子で薪の山に向かう那嵬の後ろで、一狼がラヴァと葵に向かって小さくガッツポーズをしてみせる。

当の那嵬は全く気づかず、小屋の入り口まで行き、「紐は何処だ」などと言っている。

「二層は当分安泰のようだな」

ラヴァは傍らの葵にそっと、そう言った。

「ああ…いや」

葵が口の端を微かに持ち上げる。その瞳は暖かく、紐の在り処を教えようと駆けていく一狼に向けられていた。

「ずっとだ」

それを聞くと、ラヴァも僅かに口の端を持ち上げた。

橙色の太陽が彼らの足元に長い影を落としている。




その日の夜遅く、山の澄んだ空気の中でのみ見られる―透き通るような黒さの空に浮かび上がった、上弦の月の下、中庭に面した縁側に、一枚の紙を前にして座り込んでいる人影があった。

紙の上方には『夕維と那嵬、仲直り大作戦』と書かれている。

「わざわざ余計なことしなくったってあの様子じゃあ、勝手に仲直りするんじゃないのかい?」

「そんなの分からないよ!確かに夕維は今日、爛火さんの話を聞いて、少しは気が晴れたかもしれないけど、那嵬さんのほうは何考えてるのか全然分かんないし。やっぱり私たちで手伝わなきゃ!」

勢い込んでそう話す喜綺に、「それは余計なお世話というものでは?」とは言えず、死無は黙って聞くことにした。

「それでね、やっぱり私たち以外にも協力してくれる人が必要だと思うの。今、那嵬山河どういう気持ちでいるのか、それとなく聞きだせるような人。その人に那嵬さんの気持ちを聞いてもらって、それから具体的にどうするか決めたらいいと思うの」

なるほど、もっともだ。しかし、そう都合のよい人物がいるものだろうか?ラヴァはもちろん葵だって、頼まれれば、きっと聞くことは聞いてくれるだろう。だが、肝心の那嵬がそのことに気づき、口を閉ざしてしまう可能性だってあるのだ。

「ねえ、喜綺…、やっぱりさあ…」

そう簡単にいくもんじゃ、と言いかけたとき、廊下の奥から声がした。

「お前ら、何やってんだ?」




吾亦紅の小さな紅紫の花に軽く手をやり、整える。葉からなのか茎からなのか、香って来る芳香に、爛火はそっと顔を近づけた。

およそ花びらというものの無い小花が集まって団子のような形に咲くため、別名団子花とも呼ばれるこの花は、華よりも茎や葉に芳香がある。

花言葉は「変化」。先程夕維とともに近くの山に出掛けると告げに来た喜綺がそう教えてくれた。

「またまたピッタリですね」そう言って笑いながら出掛けていった。

どうやら今日、二人を仲直りさせる算段らしい。

昨夜遅く、一狼と喜綺、死無があの『計画書』を持ってやって来た時は何事かと思った。喜綺と死無があれこれと頭を悩ませているところへ、一狼が偶然通りかかり、何とかして聞き出してもらおうと思っていた那嵬の気持ちがで聞け、話はトントン拍子に進んだという。

「那嵬もさ、シを追うのに邪魔になるとか何とか言っときながら、ほんとは夕維の悲しむ姿、見たくなかっただけなんだよな。なのに、いざそのときが来たら、自分が耐えられなくて逆にひどいこと…。こんな形で思い知らせたくないって、そう思ってたの自分なのに。天邪鬼だよな…。でも、自分がこういう風になるのわかってたから、最初から反対してたのかもなあ…」

騒々しいほどに快活な、普段の彼からは想像もできないほど、淡々と静かにそう語る一狼の姿に爛火は、自分の知らない間の彼の成長を感じ取った。しかし、その後、冷羽が起きてしまうからと言って諌めなければならないほど賑やかに具体的な作戦を練る姿を目にしては、やはり考えすぎかとも思う。

相談の結果、二人を別々に連れ出し、どこかで二人きりにしようということになった。夕維の方は、喜綺と死無が『いい景色が見られる場所があるから』と言って連れ出し、那嵬の方は『山菜取りを手伝ってくれ』と言って、葵と一狼が連れ出す手はずになっている。                                    怪しまれないようラヴァも一緒だ。

意外なのは美夕で、「那嵬のにやけ面なんか見たくない」と言って残っている。うまくいきそうだと分かりさえすれば、その場で見ることはしたくないらしい。やはり那嵬に取られた気がするのだろうか。女将である自分も、そう簡単に旅館を離れる訳にはいかないので居残り組みだ。

うまくいくといいのだが。そんなことを考えながら腰を上げかけたそのとき―

「あ〜〜〜っっ!!!うるっっさ〜〜い〜〜!!!」

怒鳴り声が飛んできた。

「五月蝿いのはそちらでございましょ!!?」

慌てて廊下へ飛び出す。声は旅館の奥、冷羽の部屋のほうから聞こえてくるようだ。小走りにそちらへと向かう。

今この旅館にいるのは自分と冷羽、美夕の、三人だけだ。

冷羽の部屋は旅館の最奥に位置し、長い廊下を隔てて他の部屋とはかなり離れてはいるが、もし、暇に任せて旅館内を歩き回っていた美夕がそこに辿り着いてしまったとしたら…。

自然と足が速まる。何といっても今、二人の他は自分しかいないのだ。

冷羽の部屋に近づくにつれ、声は大きくなり、激しさを増していく。そして、とうとうその部屋に辿り着いた。雪山が描かれた豪奢な襖に手をかけ、深く息を吸い込む。その間も部屋の中からは怒鳴り合う声が聞こえてくる。

当初、この二人に協力して旅館を営むようになどと言って来ていた長たちにこの声を聞かせてやりたいと、爛火は心の底からそう思った。思い切って一気に襖を開け放つ。

「お止め下さい。二人とも―」

「大体なんであなたひとりでこんなとこに陣取ってるのよ!?何様のつもり!!?」

「妾は大女将ですよ?これくらいの部屋は当然でございましょ!?」

「はっ!笑わせないでよ!仕事もしないで名ばかりの大女将じゃない。知ってるのよ、爛火たちばっかり働かせて、自分はず〜っとこの部屋で優雅にくつろいでたんでしょ!?」

「無礼な!大女将の仕事は総監督なのですよ!皆をまとめることこそが仕事なのです。それにそなたが知らぬだけで、見回りだってしておりましたわ!」

「あなたを入れたってたったの四人しか居ないのに何がまとめるよ!見回りだってどうせ小姑みたいに難癖付けてただけなんでしょ!?それに客だって全然来てないじゃない!」

「そなた言ってはならぬことを―!もう許しませぬ!!」

襖越しに覚悟はしていたが、いざ部屋の中に足を踏み入れると、二人の言い争いは想像を超えた激しさだった。しかもあれほど声を張り上げたにも関わらず、二人は爛火の存在に一向に気がついていないようだ。

しかしここでめげてはならない。放っておけばもっととんでもないことになりかねないのだ。

「二人とも落ち着いて―!!」

「おまえ!冷羽相手に生意気だぞ!一層の監視者の癖に!」

「うるさいわね!この木偶人形!自分こそ旅館の名前を自分と同じにした癖に何にもしないで!どうせここでずっとゴロゴロしてたんでしょ!?」

「誰が木偶人形だ!僕は冷羽からすっごく頼りにされてるんだぞ!自分こそ人形みたいな奴連れてるくせに!あんなやつより僕のほうがずっと凄いさ!」

「ラヴァの悪口言ったわね!このボロ人形!」

「美夕!松風に対して何ということを言うのです!無礼にもほどがございましょう!」

いつの間にか松風まで参戦している。これでは先程にもまして自分の声は届きそうにない。

爛火は頭を抱えた。




「あ〜あ、那嵬のあの顔。美夕が見たくないって言ってたの分かるよなあ」

「一狼、そんなに身を乗り出しては見つかる。もう少しかがめ」

これでもかというほど沢山の緑の葉を付けた木立の陰から十もの目が覗いている。

その視線の先には切り株に腰掛け、幸せそうに笑う夕維とその傍らに立ち、微笑みこそしないが、明らかに嬉しさを隠し切れない様子の那嵬が居た。

「二人とも昨日の時点でもう気持ちの整理はついてたのさ。そうなれば夕維は素直な子だからね。那嵬のほうだって夕維にそう来られちゃいつまでも意地も張ってらんないよ」

死無が耳を動かしながら話す。

「多少強引にでも吐き出させておいて良かったな」

「ああ」

ラヴァと葵も安堵の表情を見せる。

「よしっ、もう見届けたし。後はもう任せて帰ろーぜ」

一狼がそっと立ち上がる。

「ああ、旅館が心配だ」

葵も腰を上げた。

「残っているのがあの二人では…」

そう言いながらラヴァに顔を向ける。

ラヴァは頭を抱えたくなった。




「吹雪よ!!」

「炎よ!!」

ごおおぉぉっ。

ボオオォッッ。

バキッッッ…!!カキーン!!ズンッ…!!ズウンッ!!

ますますエスカレートする二人の争いに、もはや爛火は止めようと試みることすら出来ず、只、立ち尽くしていた。

凍結、火災によって冷羽の部屋葉あっという間に瓦礫の山と化し、その被害が他の場所に及ぶのに、さして時間はかからなかった。

無数の氷の矢が床を貫けば、巨大な炎が柱を包み、梁は焼け落ち、壁は巨大な氷柱によってもはやただの穴となった。炭と化した床や凄まじい低温で凍らせられた壁は少し触れるだけであっという間に崩れ落ちる。

二人は着物の裾を翻し、崩れ落ちた場所からまた別の部屋へと移動し、また時には天井に空いた穴から出ると、屋根の上からでも攻撃し合った。

「ああ…せっかく磨き上げた床が…張り替えた障子が…花瓶が…掛け軸が」

いやいやとはいえ、一生懸命に手入れをした旅館が見事なまでに破壊されていく。

紅葉が一瞬にして根元から葉の一枚に至るまで凍りつき、そして次の瞬間には炎に包まれた。

「紅葉が…」

爛火はもうそれ以上何も言わなかった。




「うわあ…」

「旅館…なくなっちゃいましたね」

「ここまでとは…」

「…派手にやったもんだね」

「…信じられん」

ほんの数時間前までは、確かに立派な旅館が建っていたはずの場所で、おびただしい数の瓦礫の山を目にすると、一同はそれだけ言うのが精一杯だった。

「あ…あれ、昨日入ったお風呂だ…。多分…」

喜綺が指差した方に一同が目をやると、瓦礫の山の下―かすかに岩風呂らしきものが見えた。もっともその岩も周辺にゴロゴロ転がっていたのだが。

「ハァ…」

ラヴァは溜息を吐いた。

戻るのが遅すぎたのだ。もし、自分が居たとしても止められたかはどうかは怪しいものではあるのだが、それでも居ないよりはましだったろう。

見れば冷羽と美夕はまだ言い争っている。技を繰り出すのはもう疲れたのだろうか。

「そなたとこうして言い争っていても埒があきませぬ。旅館も無くなってしまったし」

冷羽は瓦礫の山を見やる。先程よりはいくらか冷静さを取り戻したらしい。

「おまえのせいだぞ!!」

「あんたたちのせいでもあるでしょ!何責任転嫁してるのよ!!このダメ人形!!」

「お黙りなさりませ!!とにかく!旅館が無くなってしまった以上、こんなところに用はありませんわ」

吹雪が冷羽の身体を包む。

「逃げるの!この無責任女!!」

「美夕!次、会うときまでにその口の利きようを何とかなさいませ。でなければ容赦は致しませんわ」

そう言い捨てると、冷羽は粉雪を残して掻き消えてしまった。

「ひきょうものー!!」

美夕はまだ宙に向かって毒づいている。

やっと終わったと思うとほっとして力が抜け、一狼は思わず座り込みかけたが、はたと気づいた。

「爛火!!爛火は何処だよ!?」

あまりの惨状にすっかり失念していたが、爛火の姿が見えない。

まさか巻き込まれて大怪我をしているということはないと思うのだが、やはり心配だ。きょろきょろと辺りを見回す一狼に、後ろから近づいてきた葵が西の方角を示した。

「あそこだ」

「あっ!」

見ると爛火が瓦礫の上に立ち、沈む夕日を見つめていた。

「爛火…」

一狼は近くまで駆け寄る。

一生懸命手入れをしてきた旅館がわずか数時間でこんな姿になってしまったのだ。さぞかし悲しんでいることだろう。どうやって慰めようかと思案する。

しかし、そっと覗き込んだ爛火の表情は驚くほど清々しく、安らかなものだった。

瞳は穏やかで、口元には微笑みすらたたえている。夕陽に照らされ、金色の光の中に浮かび上がったその姿は、一狼の目に一種神々しくさえ見えた。

「一狼、変化じゃ」

「え?」

怪訝な顔をする一狼に微笑みかけると、爛火は再び夕陽に向き直った。

「―私はあの花の持つ変化という意味は夕維たちのことだと思うておった」

言葉を切り、目を細める。

「だが違った。変化とはこのことだったのじゃ。見よ、一狼。何も無くなってしもうた。我々も帰ろう。帰れるのじゃ。のう、一狼」

「爛火…」

陽の光を浴びながら朗らかにそう言う爛火を前に、一狼はただ頷いた。

「爛火、よっぽど清々したんだな」

という言葉は飲み込んで。




少し離れたところからそんな二人の姿を黙って見ていた葵は、もしも長達がこの瓦礫の山を片付けろと言って来たら、それだけは何としても絶対に断ろうと固く心に誓ったという。

ふと見れば、空を見事なグラデーションで染め上げ、地上では一同の足元を黒く染め上げる夕陽だけがこの瓦礫の山の中で昨日と同じだった。




     MUESUM ERIPMAV