空は、灰色と青色を混ぜ合わせ、少ない水で溶かした絵の具で塗りつぶしたかのようで、下のほうは特にその色が濃くなっていた。
そして、先ほどまで降り続いていた雨のためだろうか、全体がぼんやりと、もやがかかったように見える。下のほうがより色濃く見えるのも。雲が上方に多いためだろう。
さまざまなものの輪郭がはっきりしない、そんな空の下で、家々の小さな明かりが浮かび上がっているかのようだった。
声を掛けたのは、ほんの気まぐれだった。
眼下に小さな町を見下ろす、山肌を削って舗装された、その急な山道のガードレールから身を乗り出すようにして、その子は宙にカメラを向けていた。
「何してるの?」
まさか後ろに人が居るとは思わなかったらしい。驚いたように振り向くが、すぐに笑顔になった。
「もちろん、空を撮ってるのよ」
そういうと、再びファインダーを覗き込む。
「空が好きなの?」
「当たり。なんでわかったの?」
「普通、空を撮るっていったら、夕焼けとか綺麗な青空でしょ?こういう色の空を撮るのはよっぽど空が好きな人だわ。違う?」
「すごいわね!その通りよ!」
弾んだ声で、再びこちらに向き直る。
「私は空が好き!大好き!雲ひとつない青空も、まばらな雲がのんびり浮かぶ空も、少しずつ染まっていく夕焼けのグラデーションも、黄昏時の前のほんの一瞬の明るさも、下のほうに茜を残した群青色の早い夜の空も、深夜のぴっとした深みのある黒も、朝方の白い光の間の薄い青紫も。一番なんて選べない。皆、皆大好きよ!空ってね、一日のうち、一瞬だって同じってことがないのよね。常に動いていて、変わっていく。その一瞬一瞬がとても綺麗なのよね。それにね、毎日、同じように見えるかもしれないけど、昨日の空と今日の空は全然違うの。一日だって同じ日はないのよ。太古の昔からずーっと。それってすごいことだと思わない?」
熱っぽく語る少女の様子に美夕は目を細める。
「本当に空が好きなのね」
「ええ!」
カシャッ。カシャッ。シャッターが押され、そのたびフラッシュが光る。
「いつかは空の写真専門のカメラマンになるつもりよ」
「いいわね」
美夕の胸の中に小さな波紋が生まれる。自分でもそれと気づかないくらい、小さく。
「でしょ?父も賛成してくれてるの。あ、まだ話してなかったわね。私の父も空が大好きなのよ。空の写真をいっぱい集めて、家中に飾ってあるの。いくら綺麗でも、これだけの量に囲まれて暮らしてると変な感じがするって、母がぼやくくらいにね」
何故だろう。心がざらつく。いや、理由は分かっている。どこか似ているのだ。この少女は━。
「ねえ、あなたの夢は何?」
真正面から見つめられて、返事が出来なかった。
「…私の…夢…?」
「そっ、何かあるでしょ?」
カメラを大きめのボストンバッグにしまいながら、少女は軽い調子で続ける。
「…私の…夢は…」
「絵描きになること?」
一瞬にして、美夕は凍りつく。
「…どうして」
それを知ってるの、と言いかけるが、あとは言葉にならない。
時とともに、空の青色と灰色はどんどん濃くなり、今はもう殆ど黒といっても良かった。しかし、一面に薄く広がる雲のために透明な、というよりは、澱んででもいるかのような、けれど、妙に魅き付けられる、そんな色に変わっていた。
「なんとなくよ」
少女は美夕の心のうちを見透かしているかのように、悪戯っぽく嗤う。その顔は、残酷な遊びを思いついた小さな子供のようだった。
「ねえ、ところで名前なんていうの?」
不意に話題を変える。顔はもう、先ほどと同じ、ただ純粋に夢を追いかける少女の明るいものに変わっていた。今のは見間違いだったのだろうか。
「私は村上エリカ。あれだけしゃべっといて、今更自己紹介もないんだけどね。一応、この道、ずっと登ってったとこにある私立マキシミラ女子中学校の二年生。山羊座のA型。好きな食べ物は…いろいろあるけど、今はミルフィーユかなあ」
「美夕よ…山野美夕」
まだいくらか警戒してはいたが、それだけ答えた。
「いい名前ね」
少女は微笑む。
「ねえ、美夕は変わっていくものより変わらないものが好きなのよね?」
「…どうして?」
「だって絵が好きなんでしょ?だったらそうだわ。だって絵に描かれた風景は動かないもの。ずーっと変わらないのよ」
まるであなたみたいに。少女がそういったような気がした。
自分はずっと変わらない風景が欲しくて絵描きになりたかったのではない。そんなもの欲しくはなかった。それを望んでいたのは父のほうだ。いや、今となっては本当に望んでいたのかどうかさえ分からない。
「だったら…写真だってそうじゃない」
「ああ、確かにそうよね。うっかりしてたわ。じゃあ、私たち、似てるのかもね」
大げさな身振りでそういうと、何がおかしいのか少女は一人で声を立てて笑い始めた。何故かその声はひどく耳に障った。
胸の奥に得体の知れない不快感がこみ上げてくる。同時に、このまま話し続けていれば、確実にこの少女に取り込まれてしまうという考えが脳裏を掠めていった。
いったいこの少女は何者なのか。本当に人間なのか。いやそれより、早く此処を離れなければ―。此処は危険だ。何故かそう確信する。
今や全身を支配する焦燥感と不安感に一歩後ずさる。
「私…もう帰らなきゃ…すっかり暗くなってしまったし…」
「どうして?まだいいじゃない?」
身体を二つに折って笑い転げていた少女が、緩慢な動きで、こちらを振り向く。その顔には、獲物を追い詰める猛禽類の残忍さと、幼い子供の無邪気さが同居していた。
反射的にきびすを返して走り出す。いや、走り出そうとしたそのとき、腕を掴まれた。すごい力だった。とても少女のものとは思えないほど。
「ねえ、美夕。いつも本名をもってはぐれ神魔を闇に還しているくせに、どうして自分の名前はあんなに簡単に教えちゃったのかな?もしかして、監視者だから大丈夫って思ってた?」
少女の顔に冷たい笑みが広がる。
「自分の口から言っちゃうとまた違うって、知らなかったのかな?」
どういうこと、と叫ぼうとして、声が出ないことに気づいた。
言葉は熱い塊となって喉の奥に貼り付き、決して外に出てこようとはしなかった。
驚愕に瞳を見開く美夕に少女は哀れみを含んだ瞳で言った。
「可愛いね。美夕は」
声を奪われた、と分かったのは、それから間もなくだった。
意識を失う直前、最後の力を振り絞っての美夕の呼びかけに応えたラヴァがその場に駆けつけたときには、少女はもう姿を消した後だった。
幸い、外傷は見当たらず、意識を取り戻し、縋りついてきた美夕に、当初ラヴァは、ただ怯えているだけだと思っていた。しかし、赤の空間に戻ってきても、相変わらず何もしゃべらない美夕に、訝しげな視線を送ると、美夕はゆっくりと唇だけを動かした。
(や・ら・れ・た・わ)
それで十分だった。
赤の空間での生活は、とても静かなものだった。何しろ、二人とも口が利けないのだ。肝心のあの少女の行方は、全くつかめなかった。
ラヴァの調べによると、マキシミラ女子には確かに村上という生徒がいたが、ずいぶん前から登校してきていないそうだ。生徒名簿に載っていた住所にも行ってみたが、そこは空き家になっていた。
(予想はしていたけど、やっぱり無駄足だったわね)
傍らのラヴァがかすかに頷く。
彼が美夕の唇の動きから、すばやく彼女の意思を読み取れるようになるまで、大して時間はかからなかった。
(どう考えてもあの子は人間じゃないわ。人として身を隠していたところなんて探しても無駄でしょうね。といって、他に手がかりもないし)
美夕は力なく微笑む。
(声を奪う神魔なんて聞いたことないもの)
ラヴァは気遣わしげな視線を寄こす。
声が出せなければ、美夕の力は半減される。当然、神魔狩りにも支障が出る。必然的に探索はラヴァの役目となるが、もしこのままあの少女が見つからず、声が戻らなければ、美夕は監視者としての使命を果たせなくなる。
それがどのような意味を持つのか、今はまだ分からない。だが、役目を十分に果たせなくなったからといって、そう簡単に許すほど、あの長が甘いとは思えなかった。
なんにせよ、あの少女―恐らく神魔だろう―を、見つけ出すのが先決だ。
再び探索に向かおうとするラヴァの黒衣に、美夕は思わず手を伸ばした。それは触れるか触れないか、というほどかすかなものだったにもかかわらず、彼は振り向いた。美夕の不安げな瞳が、ラヴァの長身を見上げている。
(あの…あのね…ラヴァ。…もし、もしもよ…私が、監視者で無くなってしまったとしても…それでも…)
一緒に居てくれる?とは、けれど何故だか言えなかった。
ラヴァはゆっくりと向き直り、黒衣を広げると、その腕に優しく美夕を包み込んだ…。
私はラヴァに体を預けると、全身の力を抜いた。まるで軟体動物にでもなったみたいに。くにゃりと。
柔らかな黒衣に額を押し付ける。すると、こんなときなのに、触れている部分から信じられないくらいの幸福感が広がってくる。その間にも、ラヴァは微動だにせず、しっかりと、抱きとめていてくれる。
ずっとこのままでいたかった。何もかも忘れて、いっそ、このまま触れたところからラヴァに吸収されてしまいたかった。けれどまた、不思議な静かさで、それができないことも知っていた。
つま先まで幸福感が染み渡った瞬間、いつもの言葉を呟いた。
(ラヴァ、大好き)
それはやはり声にはならなかったし、この位置では唇の動きも見えないだろうと思う。けれど、ラヴァはきっと分かってくれていると、そう思えた。
白い指が白と赤紫の二つの花色を咲かせた、細く長い枝に滑らせられる。
ソメワケハギ。
単に咲き分けとも呼ばれる萩の一種だ。
(変わってるのね。一つの枝に二つの色の花を咲かせられるなんて)
人里はなれた山奥だからこそ見られる、澄み渡った星空の下、美夕はその幹にもたれかかっていた。
秋の夜風が足元をかすめ、その度、草はしなり、白い着物の裾はかすかに揺れた。
傍らのラヴァは萩ではなく美夕、そして美夕の周辺に目を配っていた。
二人がこの山へ来たのは、あの少女を探すためだ。
美夕が少女と出会った場所と、その周辺は探しつくし、「村上エリカ」として生活していた範囲も徹底的に調べた。だが、手がかりすら掴めず、途方にくれていたそのとき、彼女が空が好きだと言っていたことが、思い出されたのだ。
何か重大な手がかりのような気がした。もちろん、あの話自体が自分に近づくためのでたらめだった可能性もある。
だが何のために?
何故、神魔が闇に返される危険を冒してまで、監視者である自分に近づく必要があるのだろう?仲間の復讐だろうか?それとも監視者を倒すことで地位を上げ、位を得るため?いや、違う。もしこのいずれかならば、あの場でとどめを刺していたはずだ。だが、相手は声を奪っただけで姿を消した。そして、今まで何の行動も起こしていない。力が半減している今こそ、倒すには絶好の機会であるのにだ。
美夕は混乱しそうになり、ひとまずこの問題については考えないことにした。
結局、空を撮るには山が適しており、最初に会ったのも山道だったことから、あちこちの山野を探索することになった。
当初は美夕の身を案じ、ラヴァが一人で出ようとしたのだが、奪われた声は絶対に取り戻さなければならない、そして声を奪われたのは他ならぬ自分だと主張し、美夕も同行した。
そして、今はこの萩の木が多く自生する山に来ていた。
ふと風がやんだ。
辺りが静寂に包まれ、二人の身体に緊張が走る。視線は同じ、暗闇の中の一点を見つめていた。
そして、その暗闇の中から、音も立てずに一人の少女が現れた。
けれどそれは、あの少女ではなかった。
「村上エリカ」は、背中まで届く髪に切れ長の瞳、すっとした鼻筋と大きくて薄い唇の少女だった。だが、今、美夕たちの目の前に居るのは、肩にかかる程度の髪にパッチリとした大きな瞳と、小さな鼻、同様に厚くて小さな唇を持った少女だった。
しかし、その表情はあのときの「村上エリカ」と同じ、酷薄で怜悧なものだった。
(あなた…誰?)
「くくく…」
その質問には答えず、少女は忍び笑いを漏らす。ラヴァが庇うように美夕の前に立つ。と、
「引っ込んでろ!!!あんたには関係ないんだよ!!!」
突然少女が鬼のような形相でそう叫んだ。しかしすぐにまた笑い出す。
「ひどいなあ。もう忘れちゃったの?ちゃんと自己紹介したじゃない。私よ。村上エリカ。もっとも今は高野麻衣だけどね」
(どういうことなの…?)
「う〜ん、しょうがない。美夕には特別に教えてあげる。なんたって、これからはずっと一緒なんだもんね」
甘えた声でそう言う少女に、美夕は底冷えのする恐怖を感じた。
ずっと一緒とはどういうことなのか。姿が違う理由よりも、そちらのほうが気に掛かる。しかし、一方ではそれを聞くことに嫌悪に近い拒絶を感じてもいた。
「私はね、人に寄生する神魔なの。気に入った娘を見つけて、その娘の中に入っちゃう。でも、人間はすぐに年をとるから時々取り替えて、まあ、年をとってなくても、今回みたいに飽きたら替えちゃうときもあるけどね。だって、ずっと同じってつまんないもん。どう?今度の私?可愛い?美夕が気に入るといいんだけど」
「高野麻衣」はくるりとターンして見せる。
(…どうして私の声を奪ったの?)
美夕は今すぐこの場から逃げ出してしまいたい衝動を必死に抑えながら、そう尋ねた。おかしい。いままで、いろいろな神魔と対峙してきたというのに。何故今回に限ってこんな―。
「質問攻めね。でも嬉しい。だってそれだけ美夕が私のこと気にしてくれてるってことだもんね」
何を言っているのか、全く分からない。少女の口から流れ出るものは、美夕には意味不明の、単なる音の塊にしか聞こえなかった。
「声を奪ったのはもちろん美夕と一緒に居るためよ」
少女は、いや少女の姿をした神魔はにっこりと笑う。十分すぎるほど整っているのに、少しも綺麗だとは思えなかった。
「声が出なくなっちゃえば、監視者の仕事が出来なくなっちゃうでしょ?そうしたらきっと、美夕は監視者の地位を取り上げられちゃうわ。そうなったら、心おきなく、誰にも気兼ねせずに、美夕は私と一緒に過ごせるのよ。あっ、心配しないで。もし、監視者でなくなると同時にあなたの時間が動き始めても、私の能力でまた新しい身体を用意してあげるからね。美夕に似合う、とびっきり可愛くて、綺麗なのを」
あまりのことに美夕はただ立ち尽くしていた。それはラヴァにしても同様で、ピクリとも動かずには居るものの、仮面の奥の紅い瞳は驚きに見開かれていた。
(…くだらない…)
上機嫌で喋っていた少女の眉根が不快そうに寄せられる。
(役目を十分に果たせなくなったからといって、あの長はそう易々と私を解放したりしない。だいいち、監視者の血を絶やすようなことをする筈がないわ…)
美夕の言葉に少女は再び笑顔に戻った。
「なあんだ。そんなこと?簡単よ。そんなの。私が一時的に男の身体に入れ替わればいいのよ。そして、私たち二人の子供を、次の監視者として長に引き渡すの。そうすれば長だって文句ないはずでしょ?向こうだって使えない監視者より、新しい有能な監視者のほうがいいに決まってるわ。大丈夫、私たちの子供ならきっと高い能力を持ってるわよ。ね、だから安心して…」
真っ黒な絶望が全身を走り抜けていく。それが通ったあとは全てがどす黒く染まり、何も見えない。
(…ふざけないで……)
かろうじて、そう唇を動かす。
「もしかして、まだ両親を助けたいなんて思ってる?もういいじゃない。諦めなさいよ。あの二人が封印されてから、どれくらい経ったと思ってるの?所詮、人間と人間のような一生を送ってきた、監視者の血が流れてるってだけの女じゃないの…」
怒りで目の前が暗くなる。悲しみに脚が震える。どこか知らない世界に迷い込んだように感じる。もはや、自分の手足すら自由にならないように思え、立っている場所すら信じられなくなり、視界がうねった気がした。
だが、ほんの一瞬―うねる視界の隅にラヴァの姿が見えた。
大きな黒衣と、冷たい仮面の奥の、強い光を放つ紅い瞳。
(……美夕……!!)
とうに無くしたはずの彼の声が聞こえた気がした。
(ふざけないで!!!)
叫んだと思った。声は出ないけれど、今、自分は確かに叫ぶことが出来た。
驚きをあらわにしている少女の両の目をしっかりと見据える。自分が何故、これほどまでに怒っているのか全く理解できていないようだった。
(…いい加減にして!私はあなたなんかと一緒に暮らすつもりはないわ!監視者の役目を降りる気もない!お父さんとお母さんだってきっと助け出して見せるわ!どれだけかかっても、たとえこの世の終わりが来ても!絶対に封印をといてみせる!よく聞きなさい!私はあなたなんて大嫌いよ!!!)
美夕の唇が動くたびに、少女の眉は歪み、瞳には怒りが宿り、口は今にも叫びだしそうな格好になった。
「そいつのせいなのね…!」
震える指で少女はラヴァを指差した。怒り狂っているかのような、泣き出す寸前のような顔で、不自然に歪められた口から声を絞り出す。
「そいつが居るから美夕は私のところに来てくれないんだ。そいつがいるからそんなこと言うんだ。そうだ、そいつさえ居なければもっと早く美夕に会えたのに。そいつのせいで、私はいつも遠くから見てるだけだった。炎を操るときの踊るような姿も、綺麗な微笑みも、そいつさえ居なければもっと近くで見れたのに!ずるい!ずるい!ずるい!」
話すうちに少女の身体の震えはどんどん増していき、最後のほうは何度も同じ言葉を繰り返すだけだった。
「お前さえ居なければ!」
甲高い声でそう叫ぶと、少女は夜空に飛び上がった。
(ラヴァ!)
ラヴァは美夕に気遣わしげな視線を寄越しながら、しかし素早く反対側へ回り込んだ。
「お前さえいなくなればいいんだ。そうすれば美夕は私のところに来てくれる!!」
少女の首が不自然な動きでラヴァの方を向く。と、顎が外れたかと思うほど口が大きく上下に開き、濃緑色の霧がラヴァめがけて放たれた。
ラヴァは俊敏な動きでそれをかわす。見ると霧が触れた草木がまるで硫酸でも浴びたかのように溶けている。
「すっごーい。さっすがぁ。今まで美夕を守ってきただけのことはあるよねえ。でも、いつまで避け続けられるかな?」
そういうが早いか、少女は口から次々と霧を放つ。
(ラヴァ!!)
ラヴァはそれら全てをかわしていた。
しかし、霧の大きさと速度は強まるばかりで、それにつれラヴァのほうも紙一重でかわさざるを得なくなってきてもいた。
黒衣の端を霧がかすめ、触れた部分が溶け落ちる。
「あはははは!いっつも美夕とべたべたしてた報いだよ!」
少女が甲高い声で笑う。そして、ひときわ大きな霧が少女の口から覗いた瞬間、
「…っっ??!?」
少女の背中に無数の小さな炎が突き刺さった。まるで緑色のボールを口に咥えているような格好で少女は振り向いた。―美夕が居た。
ごくん。
少女は霧を飲み込んだ。
「へえ〜。なるほど。大きな炎が出せないから。小さな炎を沢山出して、それを一気にって訳ね。考えたね。まさか後ろでこんなことしてるなんて…ひどいよ!美夕!!!」
少女が身体を反転させ、美夕に襲いかかる。
だが、そこにほんの一瞬、わずかな隙が生じた。そしてその隙を見逃すラヴァではなかった。
刹那、ラヴァの鋭い爪が少女の背中を切り裂いた。ぐるん。首だけを捻って少女はラヴァを見る。
「…お、…おま、…え…!!」
その手は空しく宙をかき、美夕には届かない。少女を見るラヴァの瞳は烈しく、そして冷たかった。
「おのれぇ…西洋神魔の分際で…!!畜生、畜生、お前なん、か、美夕に、闇に還され…てしまえ、ば、いい…」
(闇に還るのはあなたよ)
美夕の唇がそう動くと同時に、握り締められていたその手の中から激しい炎が現れた。
「きれい…」
夢見るようにうっとりと少女がそう呟いたのと、彼女の身体が炎に包まれたのはどちらが先だったろう。
「ねえ、美夕…。あなたの今の状況を変えようとしたから怒ったの…?あなたは変わらないものが好きだもんね。絵の中の風景みたいに…。でもね、私はただ、長なんかにこき使われて、いつ終わるかも分からない役目であなたが傷つくなんて耐えられなかったの…。それだけよ。だって、ずっと好きだったんだもの…」
先ほどまでの様子が嘘のように、炎の向こうから少女が静かに話す。
(勘違いしないで…。私は変わらせるために変わらない今を生きているだけ。全てのはぐれ神魔を闇に還せばそれができる…。それに、絵を描くことが好きだったのなんて、もうずっと昔の話だわ。…今の私には関係ない)
話しながら矛盾したことを言っていると感じていた。
幼い頃の自分と今の自分とが関係ないのなら、そもそも両親を取り戻そうとすること自体、説明がつかない。だが、そうとでも思わなければ耐えられなかった。
両親の封印をとくために、この長い時間を生きながら、人間として生きていた頃のことは、極力思い出さないようにしなければ、監視者としての使命は果たせなかった。
自分は人間ではないと言い聞かせながら、一方では人間としての自分を取り戻すために生きている。我ながら本当に矛盾している。
けれど、また、両親の封印がとかれたあとも、正式な監視者となってしまう自分は、いくら、はぐれ神魔は全て闇に還した後とはいえ、もうもとの人間の生活に戻ることは出来ないのではないかという疑念も時折頭をもたげてくる。
ただでさえ、封印されたまま時間を重ねる両親と自分との間には大きな隔たりが出来ていっているように感じられるというのに。
こんなことを考えるなんて、やはり自分はこの神魔の言うとおり、全てが変わる時をどこかで恐れているのだろうか。しかし、だとしてもどうしようもなかった。
少女が目だけを動かしてラヴァの方を見る。その身体はもう半分以上消えかけていた。
「…あんたも、いつかは…美夕のために、消える、の、かな…?」
(何を言ってるの…?)
知らず険がこもる。もうこれ以上自分の心をかき乱さないで欲しかった。
ラヴァは全く動かない。
「だって…全部のはぐ、れ神魔を、闇に、還さないと…封印は解けないんでしょ?…だったら…この人も例外じゃ、な、いわよ…」
少女は口元に酷薄な笑みを浮かべる。
(…いいえ。ラヴァははぐれ神魔じゃないわ)
意識して語気を強める。もっとも声は戻っていないのだが。
(あなただって知ってるでしょ。彼は海の向こうからやってきた西洋神魔。もともと日本神魔界には属していないのよ。どこにも属していなかった者を、はぐれたとは言わないわ。だから彼ははぐれ神魔じゃない)
西洋神魔界にも監視者が居るのかどうかは分からないが、海を渡ってはぐれ神魔を狩りに行けと言われない以上、西洋神魔界は自分の管轄ではないはずだ。ならば、ラヴァだけを自分が狩らなくてはならない理由はない。
「そんなの…屁理屈だ…わ。通じな、いわよ。あの長にはね…。どこから来ようが、この日本神魔界に…居る以上、はぐ、れ神魔と、見なされ、る」
美夕は言葉に詰まる。
「美夕…可愛い美夕…あんた、やっぱり一人ぼっちだね…あたしとおんなじ…」
(…あなたと一緒にしないで)
その言葉が伝わったのかどうか、薄く笑うと、少女の姿は完全に炎の中に消えた。
本名をもって闇に還すことができず、燃やし尽くすしかなかったが、それもやっとのことだった。
不意に緊張の糸が切れ、美夕は思わずその場に崩れ落ちそうになる。が、後ろからラヴァが抱き留めるようにして支えた。
「ありがとう、ラヴァ」
驚いて口に手を当てる。余りにもすんなりと喉から滑り出てきた自分の声がにわかには信じられなかった。
顔を心持ち上に傾け、ラヴァとさかさまに向き合う。
「…声が戻ったみたい」
ラヴァがかすかに頷き、ますます、すっぽりとその黒衣で美夕を包み込む。その瞳には安堵と労わりの色が浮かんでいた。
美夕は黒衣にしっかりとくるまれながら、ラヴァの身体、お腹より少し上くらいだろうか、に頭をもたせかける。
深夜の秋風は冷たかったが、心地よく頬を撫でるにとどまり、その芯からの冷たさは黒衣の中までは届かなかった。
疲労感、脱力感、そしてそれ以上に安息感を感じ、美夕は瞳を閉じた。今はただ、ゆっくり休みたかった。
美夕の意図を感じ取り、ラヴァも周囲に気を配りながら、静かに木の根元に腰を下ろした。
美夕はゆっくりと瞳を開き、上を見上げた。
深い闇色の空を背に、白と紅紫の小さな花が細い枝にいくつも並び、それは神秘的な美しさだった。
そして―その下にはさっきからずっと自分を抱きしめてくれているラヴァの姿がある。無機質な白い仮面に覆われたその顔が、美夕にはこの世で一番優しい表情に見えた。
幸福感に全身が包まれかけたそのとき、耳の奥からあの神魔の声が聞こえた。
「いつかは美夕のために消えるのかな…?」
身体がこわばる。
消える?ラヴァが?嘘だ?そんなの。そんなことさせない。絶対に。誰であろうと、これ以上私の大切なものを奪わせない。そう、たとえ、長であろうと、私自身であろうと。
「やっぱりひとりぼっちだね…」
嘘だ。嘘だ。私はひとりじゃない。私にはラヴァがいる。この先、たとえ何があってもラヴァだけは…。
先ほどは気が張っていた分、今になって彼女の言葉が美夕の心に突き刺さる。否応無く不安は掻き立てられ、いつの間にか身体が細かく震えていた。
急に様子がおかしくなった美夕にラヴァは少し体を傾け、顔を覗き込む。
その目が一体どうしたのかと、問いかけている。
不安と恐怖に染まった美夕の瞳を認めると、その白い首にそっと触れる。あの神魔の能力の名残が、何か恐ろしい形で現れたのではないかと考えたのだ。
美夕は両手でラヴァの手を包み込むと、首を横に振った。
ラヴァは心配そうな、何か問いたげな瞳をしている。その瞳を見ていると、何もかも打ち明けてしまいたくなる。けれどそれは出来なかった。
「ずっと一緒に居てくれる?」
いつも喉元まで出かかっているのに、そのたび口に出せなくて、飲み込んできた言葉。
何故いえないのだろう。自分は彼を疑っているのだろうか?所詮、血の強制によって生まれた関係だからと?
次々浮かぶ恐ろしい考えを振り払うかのように、美夕はラヴァの首筋にすがりついた。
「ラヴァ…ラヴァ…私、私は…この先たとえ何があっても、絶対にラヴァを闇に還したりしないから…!…だから、だからね…」
続きは言葉にならなかった。黒衣にかけた指先に力がこもる。
と、ラヴァの手がただ一度だけ、美夕の髪を撫でた。
片手で美夕を抱きとめたまま、もう一方の手は、美夕の丸くまとめた髪の横に添えられる。けれど、すぐにまた石像の如く動かなくなり、ただ正面を向いて座っていた。
美夕はその手をそっと、少しずつずらし、自分の手で包み込むようにして頬に当てる。そして、静かに泣いた。
萩の枝が風に揺れる。白い花びらと紅紫の花びらが重なり合うように舞い落ちていく。まるで涙のように。
ひらひら、ひらひらと。
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