「ねえ、ねえ。美夕はチョコレート買う?」
唐突に問いかけられて、返事が出来なかった。
「あ、それとも手作りとか?なんか義理チョコとか買いそうなタイプじゃないもんね。美夕って」
「…そうだね」
曖昧な返事を返しておく。自分のどの辺がそういう風に見えたのだろう。
ここはとある中学校の教室のひとつで、今は昼休み。バレンタインデーまで一週間を切ったこともあって、ここ数日はこの話題で持ちきりだった。
もっとも私には関係ないけれど。胸の中でつぶやく。
「え〜!誰?どんな人?」
「この学校の人?あたしたち知ってる?」
「ううん。智美たちの知らない人だよ」
その言葉に少女たちの輪が一層わく。次の言葉が飛んでくる前に、急いで、でも、なるだけさりげなく席を離れた。
智美がこちらを見ていたけれど、声を掛けられることはなかった。
それから数日後、バレンタインデーまで、あと二日となった日の放課後。
少女たちの興奮は、今がピークかと思われるほど、皆、浮き足立っている。でも、その中で、知美は妙にそわそわとして、落ち着かない様子だった。
「どうかした?」
近寄って声を掛けると、一瞬、ほっとした顔をして、また落ち着かない素振りを見せた。
「…あの、実は…頼みがあるの」
上目遣いにこちらを見ながら、おずおずと話す。
一部の少女たちが、媚びていると言って嫌悪をあらわにする、彼女のこの仕草が、美夕は嫌いではなかった。
「なに?」
「あの…あのね…一緒にチョコレート作ってくれないかな?」
意外な頼みごとだった。
知美はバレンタインデーのことはずいぶん前からあちこちで話題にしていたから、てっきりもう準備は出来ていると思っていたし、何故、いつもこの話題には興味のない風にしていた自分を誘うのか。
頭の中にいくつも疑問符が浮かぶ。
「ほら、美夕って、こないだの調理実習のとき、すごく上手だったじゃない?だから手伝ってもらえてらなあって」
美夕が口を開く前に、早口にそう付け加える。
「でも私、チョコレートあげないし…」
「え〜?うそお!?だって学校で誰か、あたしたちの知らない人にあげるって言ってたじゃない」
「あれはうそ。だって、あのときはそうとでも言わないと離してくれそうになかったでしょ」
「もう〜!」
知美が抗議の声を上げる。
まるで牛みたい。そういったらきっと、もっと怒らせてしまうのだろうなと、とんちんかんなことを考える。
「お願い〜。手伝ってくれるだけでいいの!ラッピングもあげるし!」
チョコレートをあげないのに、ラッピングをもらっても仕方ないんだけど、と心の中で思う。
「いいよ」
「本当っ!?ありがとう!!美夕!じゃあ、早速明日、あ、予定なかったらでいいんだけど、放課後うちに来てくれないかな?」
「分かった。明日の放課後ね」
深く考えることはない…。だってこんな人間のイベント、私には何の関係もないのだから。私は知美を手伝うだけ。そう、ただ手伝うだけよ…。
そこは閑静な住宅街の一角、小さな、でも可愛い二階建ての家だった。そこに住む彼女に似て。
「上がって、上がって。散らかってて恥ずかしいんだけど」
二階にある知美の部屋に鞄を置くと、すぐに階下の台所に通された。知美は生クリームやバターを冷蔵庫から取り出す。
「まな板はこれでいい?」
美夕がシンクの上からまな板を取り出す。
「うん!あ、ねえねえ。美夕は銀と薄紫と黄と緑、どれがいい?」
クーベルチュールチョコレートと書かれた包み紙を破りながら、知美が尋ねる。
「なに?」
「もう!ラッピングの包みの色だってば!あげるって昨日言ったじゃない!」
「ああ…それ」
ぱきっ。チョコレートを線に沿って割っていく。
「美夕ってばテンション低いよ〜」
ぱきっ。ぱきっ。まな板の上にチョコレートを積み上げていく。これから、これを刻まなければいけない。そして湯せんにかけて…。
「ラッピングは別にいらないんだけど?」
「なんで?なんで?」
「だから、私は誰にもあげないんだってば」
「じゃあ、とりあえず選ぶだけ選んで包もうよ。気が変わって誰かにあげたくなったとき困るでしょ。ねっ」
めげずに智美が言う。
「気は変わらないと思うな」
「わかんないじゃない、そんなの!人の気持ちなんて変わってくものだよ!」
人の心ならね…。
「じゃあ、じゃあね、藍色とオレンジ色と焦げ茶色、どれがいい?」
「なあに?」
ため息を吐きながら美夕が聞く。
「リボンの色!!」
智美の叫ぶような声がキッチンに響き渡った。
「あとは冷蔵庫で固めて…テンパリングしたチョコレートの中に浸して…それから」
「表面が固まる前にココアパウダーの中で転がしたら完成ね。あと一息」
「ねえ、美夕〜。もうそろそろ決めてもいいんじゃない?」
ココアパウダーをバットにあけようとする美夕の背中に声が掛けられる。
「…降参。分かった。薄紫の包みに藍色のリボンにするわ。これでいい?」
美夕は肩をすくめて白旗を揚げる。
「うん!」
智美は満面の笑顔を浮かべて頷く。
ラッピングの色を決めたくらいで、この笑顔が見られるのなら、良かったと、誇張でもなんでもなく、心の底からそう思う。
そう。別に包んだからといってそれを誰かにあげなくてはいけないわけではない。捨ててしまったってかまわないのだ。
「ところで智美は誰にあげるの?」
「えっ?えっ?私?え〜と、え〜と、その、え〜と」
智美は話の矛先が自分に向けられた途端、慌て始めた。
本当は智美がチョコレートを渡すであろう相手が誰かなんて分かっている。彼女はこういうことが隠せないタイプだ。
廊下ですれ違うだけでおろおろと動揺し、選択科目別にクラス編成される地歴の授業ではどうやって調べたのか―多分、彼と同じクラスの女生徒に聞いたのだろう―同じ地理をとり、授業中には彼の方ばかり見ている。
当然、成績は悪いものと思いきや、彼の前で恥をかきたくないのか、いつもなかなかの成績をとっているそうだ。
此処まで、分かりやすいと相手も気づいているのではないかと美夕は思っている。
「ちゃんと渡せるといいね」
「えへへ…うん」
照れくさそうに、でもうれしそうに智美が答える。その様子を見ながら美夕は何故かすっきりしないものを感じていた。それが何なのかは分からなかったけれど…。
「今日は本当にありがとう」
「ううん、そんなの気にしないでいいよ」
あれから出来上がったチョコレートを包むと、後片付けをして、小一時間程、智美の部屋で喋ったり、本を見せてもらったりした。
「それじゃ…」
また明日ね、と続けようとするのを智美の声が遮る。
「待って、待って!これ!忘れ物!」
手のひらに収まるくらいの大きさの、薄紫の包みを半ば押し付けるように渡す。
「ああ…これ」
わざと忘れたのに、やっぱり気づかれちゃったか、と胸中で続ける。
「駄目じゃない!こんな大事なもの忘れちゃ!」
美夕の両手にしっかりと包みを握らせる。
「美夕ってさ…本当は渡したい人…いるんじゃないの?」
智美が彼女には珍しく、押さえた声音で言う。
「どうして…?」
何気ない調子で逆に聞き返す。
「だって…ちょっと嫌がりすぎかなって…。なんか変な感じ…、なんか隠してるみたいで…」
智美はいつもはしゃいでばかりのようでいて、妙に勘の働くところがある。
「いないよ…ほんと。考えすぎだよ」
平静な声を保ちながら言う。
そう。本当にそんな人はいない。
頭の中に一人の人物、否、人ではないのだが、の顔が一瞬浮かぶ。けれど意識してその顔を頭の隅に追いやる。私たちは人ではない。だからこんなお祭り騒ぎに関わるはずはない。
そうよ…そんな「人」はいないわ…。
「美夕の好きな人ならきっとすごくかっこいいんだろうね」
「智美…私の話聞いてる?」
あきれながら、先ほどとは変わって、うっとりと何かを想像する智美を見やる。
全く、今の会話をラヴァが聞いたらどう思うだろう。もっともその心配はないけれど。ラヴァは常に美夕の呼びかけに応えられるように、遠く離れて行動することはめったにないが、だからといって美夕の言動の全てを見聞きしているわけではない。特に今のように、人間の友人と話しているときなどは気を利かせて、少し離れた場所にいてくれる。
だから、今日、美夕が友人の手伝いとはいえ、チョコレートを作ったことも、今の会話の内容も、ラヴァは知らない筈だ。だから大丈夫。
…大丈夫?どうして私はこんなことを心配しているのだろう…?
「じゃあ、また明日ね。美夕」
大きく手を振って別れを告げる智美に、同様に手を振り返し、彼女の家をあとにした。けれど、胸の中には、もやもやもやしたものがわだかまっている。
「うまくいくといいね…」
智美の小さな呟きは、けれど美夕には聞こえなかった。
嗤っちゃう。監視者が西洋神魔にバレンタインのチョコレート?
ばかばかしすぎて本当に笑い話にもならない。あ、でもこれじゃ嗤えるのか笑えないのか分からないな、と一人で苦笑してみる。
でも、じゃあ、どうして私は今日、智美の家に行ったの…?
生徒になりすまし学校に隠れていた神魔は、昨日、ラヴァと二人で闇に還した。だからもう今日は学校へ行く必要はなかったはずだ。智美や他の生徒たちの記憶もさっさと消してしまって、いつものように姿を消す…そのはずだったのに。
どうしてラヴァに言い訳めいた説明をしてまで、今日智美の部屋に行ったのか。自分でも分からない。
智美のことが特別気に入ったから?ううん、違う。いつもならそういう子からは、さっさと血を貰って、夢を与え、それで満足していた。
現にラヴァだって、もう神魔もいない学校にもう一日行くといっても、とりたてて不思議がる素振りも見せなかった。恐らく、気に入った娘の血を貰いにいくと思ったのだろう。
けれど、自分は今日、智美と一緒に居る間、一度も血が欲しいとは思わなかった。それどころか考えすらしなかった。自分がずっと考えていたのは…。
「捨てればいいのよ!こんなもの!」
通りかかった公園のゴミ箱に包みを投げ入れようとする。
けれど。ためらってしまう。
ゴミ箱の上に包みをかざしたまま、数十秒が過ぎる。
こんな、手の中にすっぽり納まってしまうほどの大きさの包みがやけに重く感じられた。ふと目をあげると、公園を挟んだ通りの向かい側に、小さな洋菓子店が見えた。
明るい色調のレンガで飾られた、石造りのような質感の白い壁―恐らく本当の石造りではないだろう。ばら色の屋根と出窓。白い枠組みにガラス張りのドアには、昔、牧場で牛が付けていたような素朴な鈴が、店の名前を記したドアプレートとともに掛けられている。
店の中には頬を店の屋根と同じ色に染めて、色とりどりのチョコレートを選んでいる少女たちが居た。
そして、美夕はその中に彼女の分身を見つけた。夕維だ。
シを探している途中なのだろうか。どこかの中学の制服に身を包み、友人らしい少女達とチョコレートが並べられたショーケースを見ている。
彼女も美夕と同じ吸血姫だ。鮮赤の池を探しながら、長いときを生きている。しかし、その顔は普通の中学生と全く変わらず、そして、とてもうれしそうだった。誰のことを思ってそんな顔をしているのかは分かっている。
那嵬━いつも夕維を守ってくれる存在。
本来なら感謝すべきはずなのに。それでも、美夕には彼が自分と夕維を隔てる存在のように思えて仕方ない。理不尽なのは分かっている。だいいち、自分にだってラヴァがいるというのに。
ラヴァ。その名前に反応してしまう。
彼の存在は自分にとって何なのだろうか。今まで改めて考えてみたことなどなかったけれど。只の下僕?それとも唯一の守護者?色々な言葉が脳裏に浮かび上がっては消えていく。けれど、そのどれもが十分ではなかった。
夕維は一口大の様々なチョコレートが入った箱を買っていた。店員がカウンターで何かを示し、夕維は彼女と話しながら、それに指差した。しばらくすると、さきほどの店員が深緑色のリボンが掛けられた紺色の箱を持ってきた。どうやらリボンの色を選んでいたようだ。友人達と笑いさざめきながら夕維が店を出て行く。
その後姿を美夕は見送った。夕維を見かけたのに声を掛けなかったことなど初めてだった。
あれこれ迷いながら、チョコレートを選ぶ夕維の幸せそうな微笑み。やっと決めたものを指し示す長い指。紺色の小さな箱にかけられた深緑色のリボン。
あの仏頂面はどんな顔をして受け取るのだろう。きっとはじめは怒るだろう。
「何を人間みたいなことを」「そんな暇があったらシを探せ」と、けれど夕維に悲しげな顔をされたら結局は受け取るのだ。
やっぱり許せない。夕維に悲しい顔をさせるなんて。
自分の想像の中の那嵬に美夕は憤慨する。
でも、ラヴァならどうだろう?受け取ってくれる?もしそうならどんな顔で?それとも怒られるだろうか?
「監視者としての自覚を持っていただかないと困ります」などと言って。
いつのまにか両手でしっかりと持っている包みを見つめながら、ラヴァの反応を想像してみる。でも、やっぱり分からない。
唐突に思い当たる。
(私は怖いのかもしれない)
何が?
(突き放されることが)
いらないって言われることが?
(あんなにいつも傍に居てくれるのに)
でもいつもどこかに消えてしまうことに怯えてる。
(血だって私が望むときにくれるのに)
仕方なくかもしれないって。
(いつも守ってくれるのに、優しく包んでくれるのに)
血の強制のせいだけじゃないかって。
「怖いのね…私」
口に出してみる。
想像は所詮、想像だってわかっているけれど。
もちろん「これ」を受け取ってもらえなかったからといって、ラヴァがどこかに消えてしまうわけでも、二人の絆が血の強制だけによるものだと決まってしまうわけでもない。
でも。
何か良くないことのきっかけになってしまうようで。
自分から特別な関係の意味を変えるような行動を起こしてしまったら。
(今の状態が、今の、この関係が変わってしまうのが怖い)
永遠の中で周りはどんどん変わっていくのに、変わらない自分。でも、ラヴァだけが変わらなかった。変わらず傍に居てくれた。
だから。
それがどんな些細なことでも、彼に関わる何かを変えてしまうようなことは出来ない。
「やっぱり渡せない…」
手の中の包みを強く握り締める、と、風に揺れる藍色のリボンが目に留まる。
深緑色のリボンと夕維のうれしそうな顔。幸せそうに微笑む二人の姿が目に浮かぶ。
もし、ラヴァが受け取ってくれたら…?もし、喜んでくれたら…?
それだって「変わってしまう」ことには違いない。けれど、その変化なら…。
自分は今、とても都合のいいことを考えている。そう思いながらもとめることが出来ない。
渡してみようか?
(やめたほうがいいよ)
喜んでくれるかもしれない
(まさか、ずいぶん自分勝手な考えだね。今の関係が壊れちゃうかもしれないよ)
いいほうに変わるかもしれない
(悪いほうに変わったらどうするの?ひとりぼっちになっちゃう)
美夕は目を閉じた。
大きく息を吸う。
そして歩き出した…。
「お帰りなさい、美夕」
「ただいま」
此処は赤の空間。美夕の創る世界。
広大だけれど、いつも二人が居る場所は大体決まっているから、ラヴァも行ったことのないところもある。包みはさっき其処に隠しておいた。
どうしたらいいのか分からないまま、けれど捨てることも出来ずに、結局持ってきてしまった。
「美夕?どうかなさいましたか?」
「…!ううん、何でもない」
まだ渡すかどうかは決められない。
「のどが渇いたのでは?あの少女の血を飲んでこられなかったのなら私の…」
「ラヴァ?どうして私が智美の血を飲まなかったこと知ってるの?」
「あ…いえ、のどを潤した後のようには見えませんでしたので…」
らしくもなくラヴァが狼狽した様子を見せる。私はいつも血を飲んだあと、そんなにだらしのない表情をしているのだろうか?それとも…?
「ラヴァ、今日はどうしてたの?」
できるだけ自然に、何気ない調子で聞く。
「はい。この街に、まだはぐれ神魔が潜んでいないか探って回っていました。それが何か?」
いつもと同じ、冷静で落ち着いた声と表情。やっぱり考えすぎね…。
「ううん、何でもないの。いつもご苦労様」
そう言って微笑んでみせる。できるだけ自然に。
とうとうバレンタインデー当日になってしまった。
朝から―といっても赤の空間に居る限り、昼も夜もあってないようなものだけれど―隠してある包みをどうしようかということで頭がいっぱいだった。
思い切って渡してみようか?いっそ捨ててしまおうか?それとも包みの存在を忘れてしまっていたことにして、この一日が終わるのを待とうか?少なくとも、今日を過ぎてしまえば、チョコレートの持つ意味はなくなる。まさか永遠を生きる自分がたった一日が過ぎるのを待とうなどと考えるとは。
美夕は苦笑する。いずれにしても、これだけその存在が頭から離れないのに、「忘れていた」ことにするのは出来そうもない。
結局、渡そうか捨てようか決めあぐねてぐるぐる考え、いつのまにか、ぼーっとしてしまい、ぼーっとしていたことに気づいてまた考え、ということを一日中続けてしまい、気がつけばもう、あと数十分で二月十四日が終わる、という時間にまでなっていた。
一日をこんなに長く、そして早く感じたのは、吸血姫になってから初めてのことだ。
(どうしよう?どうしよう?どうしよう?)
焦れば焦るほど、時間が早く過ぎる気がする。
ふと、ラヴァの方を見ると、自分とは違う方向を見て、じっとしている。そういえば今日はずっとこちらを見ないし、近くにも来ない。いつもぴったりと張り付いているわけではないけれど、それにしてもこんなことははじめてだ。急に言いようのない不安がこみ上げる。
「ラ…ラヴァ…!」
はじかれたようにラヴァが振り向く。
目を軽く見開き、少し驚いているようだ。それもそうだろう。勢い余って、かなりの大声で、殆ど叫ぶようにして呼んでしまった。
「何か…美夕?」
「えっ?…え〜と、あの、あのね…」
不安になって呼んでみたものの、何か用事があったわけではない。何か言わなければと思うけど、言葉が見つからない。そして次に口から出てきた言葉は、美夕自身、とても信じられないものだった。
「も、貰って欲しいものがあるの…!」
ラヴァがさっきよりもっと驚いた顔をしている。でも、本当に驚いているのは美夕のほうだ。こんなことを言ってしまうなんて。でも、こうなればもう、ものは勢い。
「ちょっと待ってて…。とってくるから…」
ラヴァが何か言う前に、きびすを返して歩き出す。
本当は自分の空間なのだから、場所なんてどうとでもなるのだが、美夕はあえて、歩いてそこまでいった。
人間みたいに。
混乱した頭を整理して、胸の動悸を落ち着かせるため、そう、自分に言い聞かせて、歩き始めたけれど、頭のぐるぐるも胸のどきどきもちっとも落ち着かなくて。
渡す瞬間を少しでも先延ばしにするための時間稼ぎをしているんじゃないかと気づいて、慌てて思考をストップさせる。
隠してあった―正確に言えば木の根元に置いてあっただけの―薄紫色の包みを手に取る。この小さな包みが、この数日間、ずっと自分を悩ませてきた。けれどようやく、決着がつく、いや、つけなければいけない。
勢いとはいえ、これは私が選んだこと。
手の中の小さな包みをじっと見つめて、息をひとつ吐く。顔を上げて、来た道を再び歩き出した。
戻ってくると、ラヴァがこちらを見ているのが、離れたところからでも分かった。
足がすくむのが分かる。
でも、ここまで来たらもうなかったことには出来ない。後ろ手に隠すように持った小さな、でも実際よりも重く感じるこの包みが、たとえどんな変化をもたらすとしても。
ラヴァの傍に行く。
なんて言ったらいいのか分からない。ラヴァの顔すら見られない。ただ黙って差し出す。人間の女の子ならこんなとき「好きです」とか「付き合ってください」とか言うんだろうか。でも、私の心に浮かんだ言葉は違う。
ほんの数秒が気が遠くなるくらい長い時間に感じられる。
と、両手が軽くなった。そっと顔を上げてみる。
私の頭より、ずっと上のほうに微笑むラヴァの顔があった。あの、小さな包みを持って。私も微笑む。
言葉には出来なかった思いがラヴァに届いた気がした。
(ずっと一緒に居てくれる?)
それから暫くの間、黙って微笑み合う。先に口を開いたのはラヴァだった。
「光栄です…。美夕からこのようなものを頂けるとは…」
感情を表に出すことは殆どないラヴァが、さらに微笑みを深くして言う。
「別に…智美に付き合って作っただけよ…。他にあげる人もいないし」
つい憎まれ口を利いてしまう。どうしても素直になれないのだ。けれどきっと効き目はないだろう。なぜなら今の私は言葉とは正反対の顔をしているだろうから。
「私はそれでも構いません。本当に…心から光栄に思っています。お恥ずかしい話ですが、ひょっとしたら貰えないのではないかと、今日は一日中緊張していたのです」
「え…?」
耳を疑う。
「ラヴァ…?もしかして私がチョコレート持ってたの知ってたの?」
ラヴァがしまったという顔をする。
「あ…いえ、あの…。申し訳ありません…。実は美夕があの少女の家に行った日、私は本当は探索などしていなかったのです…」
ラヴァは今まで見たこともないくらい、しどろもどろになりながら、誤り、これまでのことを話し始めた。
「神魔を闇に還したあの日、私は美夕と別れてから、念のため、学校とその周辺を探索してから戻ろうと考えました。まずは校舎からと、あちこちの教室や実験室を見て周り、最後に美夕の教室の近くまで来たときに…」
ラヴァが決まり悪そうに語尾をにごらせる。
「聞いたのね?私と智美の会話を」
「申し訳ありません」
ラヴァが本当にすまなさそうな声を出す。神魔の聴覚は人間のそれとは比較にならない。だから聞こえてしまったのは仕方ないといえばそうなのだけど…。
「まあ、いいわ。わざとじゃないんでしょ?」
勤めて明るい口調で聞くと、ラヴァが視線をさまよわせ始めた。
「ラヴァ…?」
「申し訳ありません…。話を聞いてしまったのは偶然なのですが…そのあとが…その…」
「何?」
少し厳しい口調で先を促す。
「次の日…美夕のあとを…あの少女の家に入ってからは、中の様子を伺ったりはしませんでしたが…、美夕が包みを持って出てくるところを見てしまいました…。すみません」
「ということは玄関での会話も聞いてたのね?」
「…本当に申し訳ありませんでした」
「…その後もついてきてたの?」
「いいえ…!それからすぐ戻りました。ですから、それから戻られるまでの間に、誰かにあげてしまわれたのではないかと、ずっと気になっていて…いえ、それは今は関係のない話ですね。…本当にすみませんでした」
平謝りするラヴァを前に、私は怒るというより驚いていた。
いつも無口で冷静で、落ち着いていて、感情を表に出さなくて、動揺しているところなんて想像もできない、そんなラヴァが今日は驚いたり笑ったり、謝ったり。しかも、あの小さな包みに私と同じ用に振り回されていたなんて。らしくないのは私だけじゃなかった。
「まだバレンタインデーじゃないのに、どうして私が他の人にあげたかもしれないなんて思ったの?」
「最近では、当日ではなく、その前後の日に渡したりもするらしいという話を聞きまして…」
「私が流行に敏感なように見える?」
ラヴァの真剣な様子がおかしくて、思わず笑ってしまう。
「いえ…そういうわけでは…」
口ごもるラヴァの首筋に腕を回す。
「ラヴァ、大好き」
いつもと同じ台詞を口にする。ラヴァが優しい顔になるのがわかった。片手が私の背中に回される。いつもと同じ動作。それがとてもうれしい。
もう片方の手にもたれた小さな包み。これを渡したら、良くも悪くも変化が起こると思っていた。
でも、本当はそんなことはなかったのだ。確かにお互いのいつもと違う顔も見ることが出来た。ある意味ではそれも変化といえるかもしれない。けれど結局はまたいつも通り。
それでいい。それがいい。いつもと同じであることがこんなにも幸せ。
「ラヴァ、本当に、本当に大好きよ」
首に回した腕に力をこめる。少しでも伝わるように。
ラヴァは何も言わずに、でもとても優しい顔で微笑んでくれる。背中に回した手に少しだけ力をこめて。
ずっと一緒に居てくれる…?
はい…ずっとお傍に…
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