「もしって、考えたこと、ある?」
「…もし、ですか?」
深紅の月の下、―樹齢300年以上はあろうか―大木の枝に、白い着物に身を包み、その着物よりも白い肌をした少女と、黒装束の人物の姿があった。闇夜と同化している彼の存在を知らしめるのは、白い仮面だけだ。
「もし、あのとき、ああしなければ…って。…そうね、たとえば、あのとき日本に来なければ今頃は…とか」
金色に輝く瞳で、少女は月を見つめている。
「…美夕!」
仮面の青年が咎めるように声を荒げる。
「…!ごめん、違うの。そうじゃなくて…」
「…?」
体の中のどこかにある不透明なかたまりを、言葉に変える術を探しているかのように、美夕は少し、沈黙した。
「もし、あのとき、私が夜の海に行こうなんて考えなければ、吸血姫にはなっていなかったのかな」
伏せていた顔を上げ、不思議なほど静かな声で話す。
「…貴女があのとき来なくても、遅かれ早かれ私は貴女のところに行っていました」
仮面の青年は冷静で無表情な声で言う、が、しかしその心中は―決して落ち着いてなどいなかった。
「そうだね。でも、そのときはまた違った結果になっていたかもしれない。私は目覚めないまま、人として、そのときに死んでいたかも…」
「……」
青年の様子には気づかないのか、美夕はまるで他人事のような、淡々とした口調で続ける。
「ラヴァは使命を果たして、大陸に帰って、またもとのように、カールアやレムレス達と…一人の西洋神魔として、それなりに静かな暮らしを…」
「…なにが…おっしゃりたいのですか…」
押し殺したような低い声が響く。
「カールアやレムレスは、もう関係ありません!!もし、彼らの存在が貴女を不安にさせるというのなら、今すぐにでもこの爪で彼らを…!」
ラヴァの鋭い爪が暗闇の中で光る。それは月と同じ色をしていた―。
「ラヴァ、「もし」って言った…」
奇妙な節をつけた、どこか楽しそうな美夕の声が続きを遮る。
「美夕…」
ラヴァは困惑したような顔で美夕を見つめた。もっとも仮面のせいでその表情を外から窺い知る事はできなかったが。
「ごめんなさい。そんなつもりじゃなかったの。ただ…なんとなく考え始めたらとまらなくなっちゃって」
美夕は困ったような泣く寸前のような、微笑を浮かべていた。この哀しい瞳は自分に向けられているのに、美夕は自分を見てはいない。もう一度向こうを見たら、きっと消えてしまう。いや、この紅い月にさらわれる―ラヴァはそんな気がした。
「美夕、「もし」という仮定は無意味です。永遠というときの中でも、時間は確実に流れている…。起こってしまったことは、なかったことにはできません」
ラヴァは、はっきりとそう言った。しかし、その口調とは裏腹に、彼の様子は、まるで懇願するようかのようだった。
「…うん。そうだね。永遠のなかで取り戻したい瞬間を願うなんておかしいもの…。「もし」なんて、いくら考えても、それで何かが変わるわけじゃないし。―それに、もし、私が吸血の民じゃなかったら、あのとき夜の海に行かなかったら―ラヴァにも会えなかった。こうして一緒にはいられなかった」
美夕は再び微笑んだ。その瞳はやはり哀しいものではあったけれど、表情は穏やかだった。
「…美夕」
「それがいちばん辛い…」
美夕は月を仰ぎ見ながら続ける。けれど何故か今度は消えてしまうようには思えなかった。
「今夜は月がとっても紅いわ。怖いくらいに…。へんね。赤って、いちばん見慣れた色のはずなのに…」
「……」
「変なことばかり考えちゃったのも、この紅い月のせいかな」
深紅の月は静かな光を放ち続けている。
「人間たちはstrawberry moonと呼んでいるようです」
「苺の月?可愛いね…くすくす。でも、可愛いのは名前だけ。人間って本当に変なこと考えるのね」
「美夕…」
バサッ…。
ラヴァが美夕をその黒衣で包み込んだ。
「ラヴァ…?」
「恐れることはありません…」
美夕の瞳がわずかに見開かれる。
「あの夜、貴女に言った言葉です。でも今度は…」
ラヴァの腕に力がこもる。
「これから幾つの夜がこようとも、貴女が目を覚ますとき、貴女の瞳がいちばん最初に映すところに、私はいますから…」
「ラヴァ…」
「だから、安心してお休みください…美夕」
美夕の身体から力が抜けると、ラヴァはその小さな身体を自らの黒衣ですっかり覆い隠してしまう。まるで全てから守ろうとするかのように…。
時を同じくして、雲も紅い月を隠してしまった。
全てが夜の帳のなかに消えていく…。彼らの姿は、もはや月にすら見えてはいない…。
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